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こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例105・106)

今日もひとり読書会です。

110ケース読みも、残り2日となりました。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例105・106)


・(105)E.Y. 1961年4月生まれのE.Y.の初診は1968年8月。私に会う2ヶ月前から、彼は理不尽なことが多くなり、頑固になり、胃や頭の痛みを訴え、不眠となり、悪い考えを持つようになった。学校では子どもっぽくなった。怪物の悪夢を見て、幽霊も見えていた。 恐怖で目が覚めた彼は母親のところに走って行った。母親が一緒にいれば眠りにつけた。彼は日中起きているときにも同じ幻覚が見えていた。また、幽霊が自分に話しかけてくるのも聞こえた。彼は、幽霊が本物だと信じており、誰かが自分の食べ物に毒を入れていると確信していた。ナイアシンアミド500 mg 1日3回とアスコルビン酸500mg 1日1回を開始した。2ヶ月後、声は聞こえなくなったが、まだ幻覚が見えていた。恐怖心はなくなり、短気な癇癪もなくなった。1969年7月3日、この年の初めから正常を保っていた。ナイアシンアミドを止めてプラセボを投与した。2週間後に再発が始まり、過敏になって、喧嘩もするようになり、眠れなくなった。ナイアシンアミド投与を再開した。彼は数日で元気になった。1970年3月24日、彼はベッドの下にいるクモやオオカミを再び恐れるようになったと報告した。私はナイアシンアミドを1g 1日2回に、その後1g 1日3回に増量した。1971年2月19日、彼は胃痛の検査のため入院した。低血糖症であることが判明した。入院中の1週間はすべての薬をやめると、彼は再び幻覚を見始めた。退院後ナイアシンアミドを再開し、改善した。1973年8月19日、ジョン・ホッファーは彼を正常と判定した - 1111 (4)。彼は成績B上位の生徒で、フレンドリーで、何の恐怖心もなく、すべての症状が消失しており、母親も彼を正常と考えていた。1973年12月14日の最終診察時も正常だった。


・(106)V.Y. 1965年生まれのV.Y.の初診は1973年2月。彼はY家の3番目の子どもとして受診した。1972年の秋に視覚的な錯覚を見始めた。物が初めは大きく見えすぎ、その後小さく見えすぎるのだった。目を閉じると、自分がベッドから浮いているように感じた。彼は学校に行くのを恐れ、多動になった。1月中旬までに彼は再び元気になった。どうやら彼はインフルエンザに罹っていた。母親は彼が兄弟たちのように病気になるのではないかと心配していた。ナイアシンアミド1g 1日1回とピリドキシン250mg 1日1回を開始した。1973年12月14日の受診時には正常だった。


ひとりごと

(105)は幻覚・妄想・悪夢などの症状が強く現れたケースでしたが、最終的には正常と判断されるまでになりました。途中プラセボに切り替えるとたった2週間で再発し、ビタミン再開ですみやかに改善したのが印象的です。

(106)はY家の第3子。母親が「彼が兄弟たちのように病気になるのでは」と心配したということは、105が長男、104が次男だったのでしょうか。経過は短く、インフルエンザ罹患で不調になったようなので、何か遺伝的な脆弱性があるところへ感染症で免疫系のバランスが崩れたと考えるべきなのかもしれません。少なめのビタミンで軽快したようでよかったです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例103・104)

今日もひとり読書会です。

ゴールが見えると心が軽くなりますねー(笑)。あと少しです。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例103・104)


・(103)S.W.:1955年12月生まれ、S.W.の初診は1969年10月。私が彼女に会う1ヶ月前、退学になるぞと学校から言われた。家に帰るのが怖くて、2日間街を彷徨った。結局、女友達が自宅に電話をかけ、両親が彼女を迎えに来た。彼女は、両親があまりにも自分につらくあたると確信していて敵意を持っていた。彼女が遅く帰ってきた場合、両親は彼女に外出禁止を科すだろう。9年生では平均評定Cだったが、学校をとても退屈だと感じていて、たくさん欠席していた。人々が自分を見ていると感じ、夜に男性の声が自分を呼ぶのが聞こえ、自分の考えが声となって聞こえ、非現実感があった。単語がページ上を動くので、読むことが困難だった。被害妄想的で、人々が自分について話していて、見知らぬ人が自分を笑っていると思い、一度は母親が自分の部屋に盗聴器を仕掛けたと確信したこともあった。グループでの会話は彼女を混乱させた。殺人を考えたこともあり、2年前には妹の首を絞めようとしたこともあった。彼女は落ち込み、自殺願望を抱いていた。母親は、彼女が日記に書いたことや男の子に興味がないことから、娘は同性愛者になるのだと思っていた。私はナイアシンアミド1g 1日3回を開始し、いくらかビタミンCも投与した。一ヶ月後には知覚症状はなくなり、以前より学校は楽しくなり、落ち込むことも少なくなった。1969年12月15日には正常であった。1970年3月19日には好調だった。学校を楽しみ、集中して記憶することができた。彼女は1.2cmほど背が伸び、髪の成長が早くなり、爪の状態もよくなり、爪の白い部分がなくなり、荒れた乾燥肌もよくなった。1973年8月15日、ジョン・ホッファーは彼女を1111(4)-正常と評価した。彼女は1971年半ばまでビタミン剤を服用したままで、その後は、自分の潜在能力を十分に発揮できていないと感じたときにのみビタミン剤を服用していた。彼女は12年生を修了した。スポーツに積極的で、野球をしたり、冬にはバスケットボールのコーチをしたりしていた。1974年2月2日、彼女が母と2人の姉妹と2週間の休暇を楽しんだ後に帰宅途中のパームスプリングスの空港で彼女に遭遇した。彼女は好調で、人生を楽しんでいた。


・(104) K.Y. 1964年10月生まれのK.Y.の初診は1970年11月。頭は良かったが、学校では遅れていて、家庭での対応は大変だった。母親が彼を受診させた3週間前、古い家を見て、そこには蛇がいると聞かされた。彼は蛇の夢を見るようになり、ベッドに入るのを拒否しました。自分のテディベアが幽霊のように見えた。彼はしばしばベッドから逃げ出し、両親の寝室へ移って一晩過ごした。本を読むと、単語がページ上を横に動き、線は曲がり、人の顔は脈打っていた。それを見て笑ってしまうのだった。私はナイアシンアミド1g 1日2回を投与した。2ヶ月後、彼はずっと良くなった。ビタミン剤を飲まなくなるといつも再発した。ピリドキシン250mg 1日2回を追加した。1972年10月6日、彼は順調だった。1973年8月24日、彼はまだ錯視と他の子たちへの敏感さがあった。ビタミンを摂るのが好きではなかったので、彼と対決するよりはマシと考えビタミンを不規則に摂ることを許していた。学校では良い子だった。ジョン・ホッファーは彼を0111(3)、はるかに改善と評価した。多動性スコアは1970年11月2日に59→1971年2月12日に49→1973年8月24日に43であった。母親は慢性の統合失調症で、1970年11月からビタミン剤による治療を受けていた。母親は、まだ理由もなく夫に嫉妬することを除けば、かなり改善していた。


ひとりごと

(103)は無断外泊や自殺願望、妹を殺そうとしたこともあるなど手強いエピソードのあるケースでしたが、栄養が整って肌の調子もよくなり、勉強やスポーツ、家族とのバカンスなど人生を謳歌するようになったという激変ぶりに驚かされます。

(104)は母親も統合失調症で、本人には妄想や知覚変容がありました。ビタミンが嫌いで、服用量などはある程度本人任せな面もあったようですが、それでも大きく改善していますね。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例101・102)

今日もひとり読書会です。

アップロードするのが遅くなってしまいましたが、今週で110ケース読み切れるよう連続アップしていきます!


読んでいるのはこちらの本です。


確証のための情報(3)症例紹介(症例101・102)


・(101)L.W.:1959年4月生まれのL.W.の初診は1971年5月。怠け者で白昼夢を見るのが好きだったので、学校で困難があった。

5年生までは評価Bだったが 6年生になると多動状態と激しく受け身になる状態を交互に繰り返すようになり、ほとんど死んだように見えた。何年にもわたって彼の多動症状は次第に増し、砂糖への強い渇望が生じた母親は、彼の症状、特に頭痛が低血糖パターンに適合していると考え、糖分の過剰摂取をある程度抑制し始め、少し改善がみられた。私はナイアシンアミド1g 1日3回、ピリドキシン250mg 1日1回、アスコルビン酸1g 1日2回を投与し始めた。1ヶ月後、母親はいくらか改善に気づいた。彼は疲れにくくなり、一緒に生活しやすくなった。ナイアシンアミドを4g 1日1回に増やした。1973年7月31日に、彼は9年生に進級したが、注意力のスパンはまだ短く、落ち着きもなく、不機嫌で退屈していた。1971年11月の間に、彼にはこの2ヶ月で顕著な改善があったと学校が報告してきた。ずっとビタミン剤を飲みながら、甘いものを避けていた。同級生との間に問題を抱えており、友達も少なく、あまりに攻撃的だった。ジョン・ホッファーは1000(1)、改善なしと評価した。多動性スコアは1971年5月16日の97→1971年9月16日の51に変化し、1973年7月31日には83まで再び上昇した。1974年1月14日、母親は彼がナイアシンアミド1g 1日1回とピリドキシン250mg 1日1回しか摂らないだろうと私に言ったが、彼女は息子は好調だと考えていた。学校ではうまくやっており、快活であったが、家では気弱だった。大きな問題はなかった。彼の評価は1111 (4) - 正常であった。


・(102)M.W.:1958年8月生まれのM.W.の初診は1968年5月。彼女は数学に問題があった。2年生を再履修しなければならず、3年生では遅れていた。集中力がなく、心が彷徨い、誰かが話しかけてきても気づかないことがよくあった。性格は2年前から崩壊しており、落ち込んでいた。妹は慢性の統合失調症だった。

ナイアシンアミド1gを1日2回とアスコルビン酸1g 1日2回を投与した。1ヶ月後には、状態ははるかによくなり、被害妄想や恐怖心もなくなっていた。1968年8月30日には正常になり、学校を楽しんでいた。1969年4月7日、以前より落ち着きがなくなり、時折人々から自分が見られていると信じていた。私は寝る前にクロルプロマジン25mgを追加した。1971年4月30日、彼女は順調だった。ナイアシンアミドを1.5gに増やしたが、これで吐き気を起こした。10日間休薬しなければならず、逆戻りした。1971年9月3日、まだ多動で落ち着きがなかった。ナイアシン2g 1日3回に変え、彼女の母親によれば1973年7月24日までには元気になっていた。B平均で8年生を終えた。ジョン・ホッファーは彼女を1110 (3)、 大幅に改善と評価した。1973年9月4日も彼女は元気だった。1974年1月14日、彼女は名誉ある役割に就き、成熟し、より多くの責任を負っていた。彼女は順調なままであった。


ひとりごと

(101)は機能性低血糖もみられたケース。母親の観察眼はさすがですね! 食事制限をしっかり続けたら、ビタミン量を絞っても好調が保てることがよくわかります。

(102)はナイアシンアミドでは嘔気が出て、ナイアシン6g/日で経過を見たケース。先日のケースはアミドの苦みが中止の理由でしたが、こうしてB3は飲めるものを選択すればいいということですね。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例99・100)

今日もひとり読書会です。

ついに100ケース目に到達しました!! 残りあと10例♪


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例99・100)


・(99) T.W.:1958年10月生まれのT.W.の初診は1972年4月。3ヶ月にわたって非常に疲れていた。朝起きるのが困難で、起きてからも疲れたままであった。彼の家庭医はナイアシンアミド1gを1日2回飲ませていたが,それは疲労感をさらに強めた。しかし両親は、彼の行動が改善すると信じていた。私はナイアシンアミド1gを1日3回に増やし、ピリドキシン250mg 1日1回を加えた。1972年5月までに彼は正常になった。1973年7月16日、彼は3ヶ月間ビタミン剤を飲んでいなかったが、順調なままだった。多動性スコアは、最悪時には59であったが、最終診察時は33に減少していた。


・(100) M.W.:1957年2月生まれのM.W.の初診は1970年12月。8歳の時、読書習慣が乏しく、まだ夜尿があったので、メンタルヘルスクリニックで診察を受けた。何度か受診した後、尿崩症は止まった。11歳の時、集中困難を理由に再び診察を受けた。1970年の初め、少量のナイアシンアミドを投与され、いくらか改善した。彼は私に会う直前、ドラムを買うために2枚の小切手を偽造していた。学校は、彼が普通級で学ぶのは無理と判断し、情緒障害児のための特別クラスへ通うよう勧めた。彼には幻視があり、集中が難しく、神経質になっていた。クリニックでは統合失調症と診断された。父親は慢性統合失調症だった。ナイアシンアミドを1g 1日3回に増量し、アスコルビン酸を1g 1日3回とステラジン(トリフルオベラジン:定型抗精神病薬)を6mg 1日1回を加えた。一ヶ月後には良くなっていた。学校の成績はB平均になった。1972年1月5日、両親は、紹介医がナイアシンアミドを1g 1日1回に減らして再発し始めたと私に語った。その後、1971年に両親が用量を増やし、再び改善した。1972年4月25日には彼は正常になり、学校の成績は改善し続けた。私はピリドキシン250mg1日2回を追加し、精神安定剤を減薬した。1973年4月25日、彼は正常になった。1973年6月はよい1ヶ月ではなかった。彼は落ち込み、イライラし、勉強ができず、失敗することを心配していた。私はステラジンを再開した。1973年6月27日、彼はほとんど正常だった。1973年9月19日、彼は両親からお金を盗んで捕まった。1973年8月15日、彼は0, 0.5, 0, 1 (1.5) 、改善と評価された。1972年12月3日に彼は改善した。彼にはまだ幻視があり、あまりにも思考が遅く、学校でいくつかの問題を抱えており、12年生を修了するために特別クラスへ行くことを希望していた。彼はビタミン剤の効果を気に入っていたが、精神安定剤は好きではなかった。多動性スコアは1970年12月24日の75→1972年1月5日には35まで減少した。1973年8月15日、彼のHODのスコアはどれも高すぎであった。


ひとりごと

(99)はナイアシンアミド2gではかえって疲労感が増し、3gへ増量+ピリドキシン250mg追加でこんなにも調子よくなるものなんですね。容量不足で諦めないよう気をつけなければ…。

(100)は小切手偽造や金銭持ち出しのある、素行のよくないケース。抗精神病薬も使われていますが、「ビタミンは好きだけど精神安定薬は好きじゃなかった」という本人の感想が心に残ります。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例96-98)

今日もひとり読書会です。

今日はシンプルな事例が多かったので、3ケース読んでおきます。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例96-98)


・(96) Ca.W.:1962年3月生まれのCa.W.の初診は1972年6月。強盗が家に入ってくるのをとても恐れていた。叔母と二人の姉妹は、彼女の被害妄想的な態度を心配していた。自分は誰にも好かれていないと確信し、恐怖心が強く、夜になると足音が聞こえたり夜驚を起こしたりしていた。次第に無気力になり、よく身体を揺らしていた。夜には服が動物のように見えてしまう幻覚があると話してくれた。悲しく、自殺念慮があった。ナイアシンアミド1gを1日3回とピリドキシン25mgを1日2回投与した。1973年3月23日、正常になっていた。1973年5月11日に家族より、彼女がナイアシンアミドナイアシンのどちらにも耐えられないと報告があったので、イノシトールナイアシン1g 1日3回を始めた。順調に過ごせていたが、入眠が難しいとわかった。1973年6月21日、まだ簡単に落胆し、被害妄想的で、人々が自分を見つめていると感じ、落ち込みがあり、決して笑うことはなく、友人もいなかった。ナイアシンアミド1g 1日2回を再開し、イノシトール誘導体を1g 1日1回に減らし、就寝時にイミプラミン25mgを追加した。1973年8月23日、かなり良くなっていたが、まだ恥ずかしがり屋で恐怖心が強かった。ジョン・ホッファーは彼女を0.5,0.5,0.5,0(1.5)、改善と評価した。ずいぶん良くなっていたが、「かなり改善」と評価できる状態にはまだ達していなかった。1973年12月4日、ほぼ同じ状態のままだった。彼女の多動性スコアは、1972年6月22日に71→1972年8月2日に45に減少し、その後1973年8月23日には55に増加していた。

・(97) D.W.:1953年12月生まれ、D.W.の初診は1972年6月。D.W.はCa.W.の姉だった。彼女もまた内気で、徐々に悪化していた。多動で、妹と同じ行動がみられた。自分は人から見られていると感じ、被害妄想的で、人々が自分について話していると確信していた。記憶力は悪く、集中できず、途絶もみられた。ビタミン治療を開始したところ、1973年12月4日には正常になった。

・(98) F.W.:1958年10月生まれのF.W.の初診は1972年4月。彼女はこの家族の3番目の女の子だった。叔母は1年前から彼女の不機嫌さとうつ状態を心配していた。私には彼女が病気だとは思わず、ただ食生活を改善するようアドバイスした。2ヶ月後、彼女は元気になった。ブドウ糖負荷曲線は1973年2月に行われ、彼女が重度の相対的低血糖症を持っていたことを示した。


ひとりごと

(96)と(97)は姉妹。ふたりにはほぼ同じ症状があり、同時期に初診しています。妹の(96)のほうがビタミンB3の調整に難航したようで、最終的に「かなり改善」以上の評価にはならなかったようですが、姉の経過は良好だったみたいですね。
(98)はビタミンすら使わず、食事の工夫のみで軽快した事例。血糖値の乱高下のコントロールがいかに大事かがよくわかります。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例94・95)

今日もひとり読書会です。

この章が終わるまではこのペースで行かせてくださいね…ごめんなさい。


読んでいるのはこちらの本です。


確証のための情報(3)症例紹介(症例94・95)


・(94) C.W.:1959年1月生まれ。母親によると、1970年の秋までは些細な問題しかなかったが、その後非常に神経質になったという。本人は、自分は大丈夫と主張していた。1972年の初め、自分は誰にも好かれておらず誰もが自分に唸り声をあげる、と書き置きして家出した。誰も自分を探してはいけないとも書いてあった。翌朝、自分から家に電話をかけ、家族に呼び戻された。数日後、いとこと一緒に金を盗んだ。一週間後、そのいとこは年上の少年たちのギャングの一員で、自分たちのために本人にタバコを盗ませようとしていたことがわかった。その後、彼は非常に敵対的になり、誰に対しても怒るようになった。ナイアシンアミド1g 1日3回を投与した。1ヶ月後、彼はよりシャキッとして、明るく、学校でもよりよくなり、ほぼ正常に見えた。1973年7月23日、彼はジョン・ホッファーに、自分はわずか6ヶ月しかビタミン剤を続けなかったと話した。母親は、食事やサプリメントではなく、自分が息子に注意を払うようになったために改善したのだと考えていた。ジョン・ホッファーは、彼が非常に疲れていることに気づいた。毎日18時間近く、ちゃんと眠れていなかった。3ヶ月前から徐々に疲れやすくなっていた。まだ被害妄想が残っていたが、母親は彼を順調だと思っていた。評価は0011 (2)、改善であった。ナイアシンアミド200mg、チアミン100mg、リボフラビン25mg、ピリドキシン250mg、アスコルビン酸500mgを含むマルチビタミン錠の服用を開始した。1974年1月13日、疲労は少なくなり、全般的にはるかによくなっていた。その後、彼は0111 (3) - かなり改善と評価された。彼の多動性スコアは1971年4月22日に53→1973年7月23日に29に減少した。


・(95) K.W.:1964年6月生まれのK.W.の初診は1972年3月。12ヶ月で始歩、その後多動になった。1-2年生は文字が読めず、自己表現がうまくできなかったため、非常に困難であった。ナイアシンアミド1gを1日3回、ピリドキシン250mgを1日2回投与した。1ヶ月後には単語が動かなくなり、読めるようになった。学校が楽しくなり、よく眠るようになった。私はナイアシンアミドを4g 1日1回に増やした。1972年7月20日、学校ではずっと調子がよくなり、75点以下の成績はなかった。読書を楽しむようになったが、まだ落ち着きはなかった。1972年8月20日、彼はナイアシンアミドの苦味に耐えられなかったので、ナイアシン1g 1日3回に切り替えた。1972年12月19日、改善は続いていた。1973年4月23日には正常だった。1973年7月23日、ジョン・ホッファーは彼を1111(4)正常と評価した。両親はジョンに、本人がビタミンについて不注意になればいつでも行動は悪化するだろうと言った。多動性スコアは1972年3月17日に51→1972年4月20日には45→1973年7月23日は33であった。


ひとりごと

(94)は家出や盗みなど、なかなか素行の悪かったケース。ビタミンは有効だったようでうが、同時に母親の「食事やサプリメントではなく、自分が息子に注意を払うようになったために改善したのだ」という振り返りにジーンときます。

(95)は逆に、両親がビタミンの効果を実感しているケース。多動や学習の問題に有効だったようです。このケースではB3をナイアシンアミドからナイアシンにした理由が「苦味」だと明確に書いてありました。そういう選択の仕方もあるのですね…。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例92・93)

今日もひとり読書会です。

本日のケースは、昨日のケース(91)の弟たちです。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例92・93)


・(92) J.V.:1958年12月生まれ、1972年8月に初診。V家の次男であり、両親は彼の登校態度を心配していた。家族の転居にあわせて頻繁に転校を余儀なくされ、引っ越しをしないときには先生が次々現れていた。眼科医に失読症と診断され、4ヶ月間の読みの補習を受け、多少の改善はみられたが翌年には学校への興味を失った。多動性スコアは41でした。ナイアシンアミド1g 1日1回とピリドキシン250mg 1日2回に分けて服用させた。2ヶ月後、彼はより興味を示すようになり、少し成績もよくなった。1973年8月13日、学校への態度にほとんど改善がなく特に読み書きを嫌うようになったことを除けば、すべての面でほぼ良好であった。評価は1000(1) - 改善なしであった。しかし、父親によれば、必要なビタミン量の半分しか摂取していなかったとのことだ。


・(93) D.V.:1964年8月生まれ、D.V.の初診は1972年4月。小学1年生の時は、足が遅く、単語を正しく発音することができなかったが、小学2年生に進級した。特別に注意してもらえるようになってからは改善し始めた。もしこうして注目してもらえていなかったら、再度調子を崩したかもしれない。私の診察時、単語がページの上を横に移動していくと話し、悪夢や自分を両親の部屋に追い込む怪物に苦しんでおり、そして時々自分の目の中に同じ怪物が見えていた。また、他の子たちが自分の秘密について話しているという被害妄想があり、誰もが自分を嫌っていると確信していた。彼の記憶力は悪く、途絶もみられた。ナイアシンアミド1g 1日3回とピリドキシン250mg 1日2回を投与し始めた。1ヶ月後、彼の読解力は向上した。単語もページ上でおとなしくなり、悪夢も消え行動はより合目的的になった。1972年6月22日、学校でも顕著に改善し、ほぼ正常になった。1973年8月9日、母親は、彼がビタミンを摂り続けている限り、良い状態を保つだろうと言った。その後、彼はビタミンを隠すようになり、それを母親に気づかれるまで悪化していった。ジョン・ホッファーは、薬をやめてから彼が幻覚を見ていることに気づいた。学校での社会的な対人関係が困難で、非常に遅れており、白昼夢もたくさん見ていた。彼の評価は 1,0.5,0.5,0 (2)、改善、であった。1973年の秋に食欲が低下し、投薬を中止した。数日後に食欲は戻ったが、調子の悪化は続いた。その後、ナイアシンアミドナイアシンを両方とも低用量で投与し、後にナイアシン1g 1日3回投与とした。1974年1月13日、彼は順調で、学校では平均的であったが、過去数年間の困難のためにまだ遅れがあった。最終評価は1111(4)であった。彼の多動性スコアは、1972年4月14日に51→1972年6月22日に29→1973年8月9日に53であった。


ひとりごと

(92)(93)は、昨日の事例(91)の弟たち。家族で転居を繰り返していて、4兄弟のうち3人にこれだけ不調があったら大変だったろうなと想像します。おそらく両親はビタミンによる介入に積極的だったと思われますが、飲む量を減らしていたり、飲まずに隠していたり、やっぱり子どもたち自身のモチベーションも大事だなと感じます。