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子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例62・63)

本日もひとり読書会こまめに2ケースシリーズです。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例62・63)


・(62) C.P. 1962年6月生まれのC.P.は、1969年5月に初診となった。彼の母親は20年間統合失調症を患っていたが、ここ10年はアルコール依存症で苦しんでいた。しかし、最近2年間はずっと良くなっていた。母親は息子のことを心配していたが、息子は学校での勉強がとても遅く、そうしたいわけではなくても逆向きに書いていた。従順ではなくなり、罰を受けても反応せず、愚かで危険なことをたくさんしたり、夜尿したり、典型的な多動であったりした。社会的には非常に無能だった。母親はナイアシンアミド1g 1日1回を1年間彼に投与したが、改善はみられなかった。メレリル30mg 1日1回にも反応がなかった。ナイアシン1g 1日2回、ペリアクチン、抗うつ薬を投与した。1970年3月19日までは何の変化もなかった。その後、デキセドリン(アンフェタミンのこと)10 mgを追加したところ、かなりの改善がみられた。夜尿もしなくなった。1970年4月20日、私はナイアシンを4g 1日1回に増やした。1973年2月23日にナイアシンをもう一度増量し5gにした。7月16日には、彼は3年生に合格していたが、評価は改善なし、すなわち0000だった。多動性スコアは102でした。彼は薬を飲むことも拒否し、食事療法にも従わずし、多くのお菓子を食べていた。1973年11月30日、彼はまだ改善していなかった。


・(63) L.A.P. 1959年1月生まれのL.A.P.の初診は1971年8月だった。彼女にはほとんど言葉が通じないほど重度の言語障害があったが、自分が問題を抱えていることに気付いていなかった。彼女は二分脊椎で生まれたが、生後11ヶ月で治った。彼女は8ヶ月までに座り、3歳で話し始め、5歳で短い文章を話すようになった。 彼女は特別クラスにいて、ゆっくり進歩していた。彼女の読解力は非常に劣っていた。母親は、彼女は明るくて記憶力もよいと思っていた。膀胱に特有の問題があり、採尿バッグにつないだ留置型カテーテルを装着していなければならなかった。思春期になれば取り外せるようになると期待されていた。ナイアシンアミド1gを1日2回、アスコルビン酸1gを1日2回、ピリドキシン250mgを1日2回投与した。1ヶ月後、彼女はよりリラックスし、イライラすることが少なくなった。私はナイアシンアミドを4g 1日1回、ピリドキシンを500mg 1日2回に増量した。1971年12月16日、発話は明瞭になり、怒ることも減り、より好奇心旺盛で親切になった。1972年3月16日に、私はDMGジメチルグリシン) 300 mg 1日1回を追加した。1972年4月18日には、母親は彼女の発話の改善に非常に満足していた。吃音も少なくなった。私はナイアシン1g 1日3回とリタリン20mg 1日1回を追加しました。しかし、リタリンで症状は悪化した。彼女は2インチ背が伸び、読書を楽しんだ。1972年7月25日、ナイアシンを2g 1日3回に増やした。9月6日、再びはるかに良くなり、会話を始めていた。ナイアシンを1.5g 1日3回に減らした。1972年11月28日、発話はほぼ正常だったが、読書は好まなかった。1973年2月、DMGを飲みきり中止としたが、改善は維持された。しかし、1973年6月28日に母親から、発語障害が再発したとの報告があった。DMGを再開すると、彼女の発話はかなり良くなった。その後、もう一度DMGを中止したが、今回は発語の悪化はなかった。1973年9月4日、彼女の行動は正常だったが、特別クラスではまだ遅れていた。ジョン・ホッファーは0001 (1) - 改善と評価した。多動性スコアは、彼女の最悪の状態である79から1973年6月28日に43に減少した。


ひとりごと


(62)は統合失調症やアルコール依存のある母親が本人に自らビタミン療法を開始していたケース。よくなった部分もありそうですが、評価は改善なしでした。やはり食事療法に従えないことが大きな原因でしょうか。

(63)は重度言語障害があるケース。またしてもジメチルグリシンが登場しましたね。中止して悪化した初回と、中止しても改善を維持できた2回目との違いは何だったのか、とても気になります。