ここのすラボ2.1

こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例80・81)

今日もひとり読書会。

うーん、今日はちょっと読んでいてもやっとするケース。特に(80)が…。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例80・81)


・(8o) K.S.:1955年10月生まれ、K.S.の初診は1969年4月。

私が初めて彼女の兄を診たのは1968年の後半で、不眠や家庭・学校での困難を訴えていた時だった。彼は幻覚を見たことがあり、二度も幽体離脱(?)があり、声や音楽が聞こえ、神経質で不機嫌だった。非常に宗教的になって聖書を読む時間が長く、内向的になっていた。ナイアシンアミド1gを1日1回投与し、7月にはピリドキシン250mgを1日2回投与開始した。その時までには、若干の苛立ちと抑うつ感だけが残っていた。1972年9月11日、かなり改善していた。1973年5月に彼は結婚し、良好なままであった。

K.S.は、私の診察に連れて来られたことを恨んでおり、すべてを否定した。母によると、彼女は5歳半から問題を抱えていたが、それは特に私が彼女に会う1年前までの学校での問題であって、私が会ったときには彼女の学業成績は改善していた。しかし、その代わり不機嫌な気分変動に苦しむようになった。私との面談の間、彼女は未熟で敵意に満ちていた。私は彼女が病気だとは確信していなかったが、ビタミンB3依存性であるかどうかを確認するため、治療的なお試しとしてナイアシンアミド1g 1日3回 を摂るよう説得した。2ヶ月後には変化がなく、彼女はビタミンを摂るのを止めた。1973年8月10日にジョン・ホッファーが彼女に会ったとき、変わりない状態だった。マリファナを数回服用しており、それによって彼女は落ち込み、記憶力も低下していたので、それ以上使わないことにした。ほとんどの時間機嫌が良かったが、両親にイライラさせられ、母親が嫌いで家を出ようとしていた。学校での態度は悪く、成績は平凡であった。彼女の評価は1,1,0.5,0.5(3)、かなり改善と評価された。父親は、1974年1月13日に彼女を正常だと考えていた。


・(81) L.S.:1966年4月生まれのL.S.が初診したのは1972年8月。

彼女の母親は、統合失調症に12年間苦しんだ後、1972年の早い時期に私に会いに来た。彼女の精神科主治医は1969年に「この患者は現実とは多少ずれているが、彼女の精神性は完全に無傷である。彼女はよく知られる慢性統合失調症だ。彼女は非常に危なっかしくて予測不能に思える」と書いている。私と会うまでに6度も入院していた。 1972年に統合失調症のミーティングに参加し始めた。私が彼女に会ったとき、声の幻聴、非現実感、身体外の体験、被害妄想、途絶、そして重度の抑うつに伴う記憶困難と集中力低下に苦しんでいた。1973年2月に彼女はECTを9回受け、その後回復した。彼女はナイアシン1g 1日2回 、ナイアシンアミド1g 1日2回、ピリドキシン250 mg 1日3回、およびアスコルビン酸1 G 1日3回を飲んだ。

彼女の娘L.S.は、私と会う2年前に重度の癇癪と多動を呈した。単語がページの上を移動し、互いに衝突するのが見えた。声や足音が聞こえ、大人くらいの大きさの青い幽霊が見えたり、女性の姿が見えたりしていた。クモの化け物の顔も見えた。こうした幻覚は時々彼女に話しかけてもきた。ナイアシンアミド1g 1日3回、ピリドキシン250mg 1日2回、アスコルビン酸1g 1日1回を投与した。1ヶ月後には幻覚は見えなくなったが、嘔気のためナイアシンアミドの投与量を1g 1日1回に減らさなければならなかった。ナイアシン1g 1日2回を投与し始めた。3ヵ月後、彼女は前よりリラックスしていた。1973年2月19日、彼女は順調だった。ジョン・ホッファーは1973年7月25日に彼女を1,1,1,1(4)、正常と評価した。2日間ビタミンを中断すれば、彼女のうつ病が再発するだろう。多動性スコアは1972年8月の91→1973年7月25日に47に減少した。

ひとりごと


(80)も(81)も、家族の治療が先行したケース。家族の経過も少し詳しく記載されています。それにしても(80)でみられた改善はさすがにビタミンによる作用とは考えにくいような…ご家族との関係も難しそうですが、いちばん有効だったのはマリファナをやめたことだったのかもしれません。