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こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例90・91)

今日もひとり読書会。

とうとう残り20ケースを切りました。継続は力なり!!と信じて突き進みます。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例90・91)


・(90)G.V.:1956年4月生まれのG.V.の初診は1970年7月。非常に内気で敏感で、母親からは「何も与えてはくれない空っぽの子」と評されていた。何にも興味がなく、背中が硬いので身体活動や体育を嫌っていた。二分脊椎の手術を受けた。口げんかが激しく、気難しい性格だった。メンタルヘルスクリニックで1年間治療を受けたが、何の反応もなかった。両親が彼に対して厳しすぎるとクリニックでアドバイスされた。被害妄想的な考えがあり、そのことを彼は私に相談してきた。 ナイアシンアミド1g 1日3回とアスコルビン酸1g 1日3回を与え始めた。一ヶ月後、彼はよくなり、偏執的な考えも減り、友人も数人できた。1971年1月18日、彼は学校での成績はDで、そのことにうんざりしていた。ついに彼はよい食事療法に取り組んだ。1971年4月19日、彼は変わりなかった。すべての試験に落第した。甘いものから彼を遠ざけることは不可能だった。ナイアシンアミドを2g 1日3回に増量した。1971年7月13日、2つの授業に合格したが留年することになりそうだった。私はナイアシンアミドを止め、ナイアシン1g 1日3回を始めた。1971年11月25日、9年生になってかなりの困難を抱えていた。ナイアシンを2g 1日3回に増やした。1972年1月4日、成人の身長に達し、6フィートになった。学校はそれほど困難ではなく、より集中することができた。1972年5月10日に、私はピリドキシン500 mg 1日3回を追加した。彼は正常で、平均評定Cとなった。1972年8月29日、彼は2つの授業を落としたが10年生に進級した。母親は彼を順調だと感じていたが、彼自身はまだ集中困難を自覚していた。1973年2月1日、ナイアシンを2g 1日1回に減らした。1973年4月3日、彼は元気になり、勉強が楽になった。最終評価は1111(4)であった。治療開始時に14歳を過ぎていたためジョン・ホッファーの診察は受けていなかった。多動性スコアは1970年7月9日の95→1971年7月13日の59まで低下した。


・(91) R.V.:1963年10月生まれで、1970年9月初診。彼は4人きょうだいのうち紹介されてきた3人の中で最初に来たひとりであった。一年間ほど幽霊や怪物が登場するひどい悪夢に悩まされていた。時には日中にそれらが見えることもあった。部屋で一人になるのが怖くて、イライラし、従順ではなく、時には不合理になり、筋肉のコントロールを失う傾向があった。声も聞こえていた。ナイアシンアミド500mg 1日3回とアスコルビン酸500mg 1日3回を投与した。一ヶ月後は恐怖心がなくなり、よく眠れるようになった。1971年1月20日、元気にはなったがまだ過活動状態であった。1971年7月13日、状態は変わらなかった。私はアミドを止め、ナイアシン1g 1日3回を開始した。1972年1月10日、改善がないように見え、変わらずとても過敏で、よく喧嘩もしたが、知覚症状はなくなっていた。ナイアシン2g 1日3回にすると1972年2月25日までにまた改善があり、1972年6月5日までにはほぼよくなっていた。キャンプでは、1週間すべてのビタミンをオフにしていたが、再発しなかった。1972年8月28日、彼は4年生に進級できた。学校での問題はなかった。まだ頑固で、兄弟とはよく喧嘩した。1973年4月3日、母親はナイアシンを2g 1日1回に減らした。でも順調であった。1973年8月13日、ナイアシンアミド1g 1日2回投与を開始された。ジョン・ホッファーの診察を受けたとき、まだ週4日悪夢を見ていたが、目が覚めても再入眠できた。幻視があり、しばしば落ち込んでいた。彼は優良な学生で、友人も多く、家族ともうまくやっていた。薬を飲むのは嫌いだった。評価は0111(3)、かなり改善であった。彼の多動性スコアは1970年9月23日の101→1973年8月13日の49に減少した。


ひとりごと

(90)は、事例の中でも記載されているとおり初診時14歳と年齢が高いのですが、それでもきちんとビタミンを摂ることで状態が大きく改善すると知ると希望が湧いてきます。

(91)はこれから続く(92)(93)のきょうだいのトップバッターです。2年位でじわじわ効果が現れ、1週間ビタミンを中断しても調子を崩さなくなっていたのは大きな変化ですね。他のきょうだいたちの経過を読むのも楽しみになってきました♪

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例88・89)

今日もひとり読書会。

明日で症例90! 愚直に続けるのみです…。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例88・89)


・(88)AIb.V.:1962年12月生まれのAIb.V.の初診は1973年5月。3歳までに彼は奇妙な行動を呈した。物を壊すことを楽しんでおり、乾燥機の中に猫も投げ込むだろう。彼が5歳半で学校へ通い始めたとき、読むことやブロック体を書くことが習得できなかった。彼はパンツの中におかまいなく排尿・排便していたが、YMCAでは他の男の子と一緒にパンツなしでシャワーを浴びるのを拒否した。骸骨の夢を見て、目が覚めてもその夢は消えない。地下室から人々の足音がよく聞こえた。思考途絶があり、落ち込んでいた。私はナイアシンアミド1g 1日3回、ピリドキシンドキシン200mg 1日3回、チアミン150mg 1日3回、アスコルビン酸1g 1日3回を始めた。6週間後、膀胱と腸のコントロールが向上した。1973年8月29日、膀胱と腸のコントロールは正常で、知覚症状はなく、5年生に進級していた。彼の評価は1001(2) - 改善であった。1973年11月5日、状態はよくなり続け、学校をほとんど休まず、母親からのプレッシャーがなくても宿題をこなしていた。最終的な評価は1101 - 大幅改善であった。彼の多動性スコアは1973年5月22日の83→1973年11月5日に37に減少した。


・(89)M.V.:1959年3月生まれ。彼は2年間、人に追われる悪夢に悩まされていた。目が覚めたときは両親の部屋に駆け込み、一晩中そこで過ごした。私に会う2週間前に、精神安定剤を就寝時に服用開始していたが、夢は見なくなったものの寝ることへの恐怖は消え去らなかった。彼は母親の顔が老けてしわしわに見えると母親に言い、シーツもしわくちゃに見えていた。男たちが自分を傷つけようとして走り回っていると彼が信じて疑わない地下室へは母親を生かせようとしなかった。声が聞こえるようになり、奇妙なボディイメージの問題に悩まされていた。学校では、内気で敏感だった。私の初診時にもこのような知覚変化が繰り返されていた。ナイアシンアミド500mg 1日3回とアスコルビン酸500mg 1日3回を投与した。1ヶ月後、彼は改善し、夢からもすべての知覚症状からも解放されたが、まだあまりにも簡単に癇癪を起こした。私は1g 1日2回にナイアシンアミドを増やし、メレリル10mg 1日1回を追加した。1969年8月29日、彼は正常になった。1969年2月11日にはかろうじて5年生になった。自立しており、母親へのしがみつきも少なくなり、家族からは普通だと思われていた。ナイアシンアミドの代わりにプラセボを投与し始めた。1ヶ月後、再発しそうに見えたが、発はせず、元気なままであった。しかし頭の中で声が聞こえるようになり、彼がとても怒っているときには悪夢が再発した。1970年8月4日、7月の間に非常に落ち着きがなくなっていたので、母親がメレリル10mgを再開した。とてもそわそわイライラしていた。8月3日には悪夢がひどくなり、再び両親と一緒に寝るようになって大泣きしてしまった。母親は、最初に会った時の状態に戻ってしまったと感じていました。ナイアシンアミド1g 1日3回を再開したところ、1971年1月18日までには正常になり、学校でもゆっくり改善していた。1971年4月19日、まだ順調だった。1973年11月25日、彼は平均Dで5年生を修了したと報告した。秋には6年生で平均Cの成績をとり、初めてAもひとつとった。1972年6月5日、彼は元気だった。1973年8月13日にジョン・ホッファーの診察を受けたとき、彼は1111(4) - 正常と評価された。彼は8年生までで平均Cの成績をとり、高校や陸上競技を楽しみ、非常に人気もあった。6月中旬には、彼はすべてのビタミンを停止した。性格が急に悪化し、閉所恐怖症を発症し、人懐っこさも減った。ビタミン剤投与を再開したところ、すぐに元気になった。多動性スコアは1969年の59→1972年8月には27に減少した。


ひとりごと


(88)…夜尿にビタミンの介入が有効だったケースは何度も見かけましたが、パンツの中に排尿排便するのは初めてだったかも…それでもちゃんと改善するのですね! 「膀胱と腸のコントロールがよくなった」のは神経系の発達のおかげなのだろうと思います。

(89)は悪夢や被害妄想が中心のケースでした。小中学生時に長いスパンで経過を追っていて、しかも途中でビタミンをプラセボに置換した変化まで確認できているのがとても興味深かったです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例86・87)

今日もひとり読書会。

昨日は訳すたびに文章を保存しそびれることを5回くらい繰り返し、ちょっと凹みすぎて投稿せずに過ごしてしまいました。今日は再開できてよかった…。


読んでいるのはこちらの本です。


確証のための情報(3)症例紹介(症例86・87)


・(86) R.U. 1974年4月生まれのR.U.は、1971年10月に初診(74年生まれの人を71年に診ることは不可能…年齢一覧表ではR.U.くんは8歳となっているので、おそらく63年生まれ)。彼は顕著な言語障害を持っており、彼を言うことを理解することは困難だった。過敏性があり、怒りやすく、暴力的になることもあった。精神科ではIQ78の知的障害と診断された。ナイアシンアミドアスコルビン酸を各1g 1日3回投与した。2ヶ月で彼は穏やかになり、発話も良くなり、学校でもかなりの改善が報告された。1972年6月1日にピリドキシン250mg 1日2回を追加した。彼は(1973年)4月まで改善し続けた。1972年11月28日、本人が1972年6月8日から20日まで高熱を伴う黄疸になっていたことを母親から私に報告した。彼は明らかに感染性肝炎に罹っていたにもかかわらず、医療従事者によるビタミンB3に対する一般的な恐れのためにビタミンを中止させられたのだった。ビタミンを止めてからすぐに悪化し始め、発話も悪化した。1972年11月28日、改善がとても遅かったので、母親はナイアシンアミド再開を望んだ。1973年8月13日、それはまだ彼の言うことを理解するのは困難だったが、もはや声が聞こえることはなく、多動もなかった。しかしまだ協調困難に苦しんでいた。彼は0101(2) - 改善と評価された。多動性スコアは1971年10月22日の59→1974年1月13日の49に低下した。


・(87) F.U. 1960年5月生まれのF.U.の初診は1971年4月。12歳の時、F.U.の兄が1970年7月に初めて私のもとへ相談に現れた。

兄は小学5年生を2度履修することになり、それを先生のせいにしていた。5歳の時、時速45マイルで走っていた車から転落した。意識を失いかけて錯乱状態になり、7日間入院しました。これに続いて、性格が著しく変化した。激しい短気に悩まされ、頑固で、従順ではなく、頻繁に頭痛に苦しんでいた。11歳の時、一度だけ大発作を起こした。父親は偏執的なてんかん患者で、服薬を拒否していた。両親は離婚していた。兄の多動性スコアは97だった。ナイアシンアミド1gを1日1回投与した。1971年4月までに調子よくなり、6年生に進級した。1971年5月、母親が8人の子どもたちの面倒をみきれなくなったため、父親の家へ移り一緒に暮らすことになった。父親は兄に一切のビタミンを与えることを拒否したが、1972年7月18日の最終報告時点で彼はまだ順調だった。


F.U.は毎週月曜日に痛みを訴えていた。母親は、丸1日続くF.U.の重度の抑うつ発作が頻繁に繰り返されることを心配していた。それ以外のときは、彼女は明るかった。また、学校での勉強も難しくなってきていた。ナイアシンアミド1gを1日1回投与し始めた。一ヶ月後には、彼女は落ち着き、学校でも順調で、痛みを訴えることはほとんどなかった。1972年4月21日、彼女は父親と一緒に暮らしていた。母親は自分の病気のために(1971年の)夏中ずっと4人の子どもたちを父親のもとに送っていた。父親はF.U.に一切ビタミンを与えることはなかった。彼女は非常に調子を崩し、1972年3月に母親の家に戻り、母親がナイアシンアミドを再開した。彼女は改善し始め、1972年10月20日にははほぼ正常だった。私はピリドキシン250mg 1日2回も追加していた。1973年1月19日に、錠剤を飲み込むのが嫌で1972年11月15日からビタミンを中止していたことを打ち明けた。1973年8月1日に、母親は、F.U.が7月中に悪化し始めたが、F.U.自身はまだ自分のことを調子が良いと考えていると報告した。ジョン・ホッファーは彼女を1111(4)と評価した。しかし、ビタミン剤を服用している間は、イライラやとげとげしさがさらに少なくなった。1974年1月13日には順調だった。


1971年5月には母親が自分自身のために私のもとへ訪れた。彼女は自分の行動をF.U.と一緒にわが子のように判断していた。何年もの間、彼女は多くの幻視や幻覚に苦しみ、声が聞こえ、非現実感を抱いていた。被害妄想、混乱、閉塞感、抑うつ状態に陥り、記憶力と集中力が低下していた。ナイアシン4g 1日1回、アスコルビン酸4G 1日1回、ピリドキシン250mg 1日2回、アミトリプチリン75mg 1日1回で構成されるメガビタミンの処方を開始した。1973年1月には正常であった。


ひとりごと


(86)は、久しぶりに出た、医療者がナイアシンの副作用である肝障害を恐れてビタミンを止めてしまったケース。明らかに感染性肝炎があるのに…というホッファーの恨み言が面白かったです。このケース、おそらく出生年が間違っていますね。

(87)は兄の事例から始まり、本人を挟んで最後は母親のビタミン治療の話で締めくくられています。父親はてんかんがあり、母親には陽性症状があり、その両親離婚していて子どもが8人というなかなか大変な状況でしたが、本人F.U.さんは1111(4)、正常。やっぱりビタミンの作用はとても頼もしいと感じます。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例84・85)

今日もひとり読書会です。

110症例も残りあと30を切りました…。


読んでいるのはこちらの本です。


確証のための情報(3)症例紹介(症例84・85)


・(84) P.T. 1961年4月生まれ。彼は勉強ができず、乳児期から非常に落ち着きがなかった。1歳の時に痙攣を3回起こした。彼は学校に入るまでは普通だった。その後、学習の問題が出てきて、多くの癇癪を起こし、問題行動もあらわれた。私はナイアシンアミド1g 1日3回とピリドキシン250mg 1日2回を始めた。2ヶ月後、改善がみられた。回復を加速させるためにリタリン20mgを追加し、これで拍車がかかった。学校はもっと楽しくなった。1972年11月29日、母親は、彼が学校では非常に優秀だったが、夏の間ずっと盗みをしていたと私に言った。寝る前にイミプラミン25mgを追加した。1973年2月27日、彼の調子は良くなっていた。1973年7月24日、彼はジョン・ホッファーによって、1000、改善なしと評価されました。1974年1月13日、前年の10月にリタリンとイミプラミンを中止したと母親から報告があった。彼は着実に進歩しており、癇癪を起こすことも稀で、うまくやれるようになっていた。彼は1111 (4) - 正常と評価された。彼の多動性スコアは、1972年4月12日に93→1973年7月24日に77に減少した。


・(85)A.U. 1963年11月生まれの初診は1972年5月。彼が覚えている限り、文字と数字が裏返る視覚的な錯覚に悩まされていた。また、非常にそわそわした、落ち着きなく、過敏で、動揺しやすかった。単語がページの上で揺れ動いて互いに衝突し、数字は反転し、鉛筆は蛇のようにくねくね動いた。魚やクジラやその他モンスターの幻覚を見たり、近くに両親がいないのに自分を呼ぶ声が聞こえたり、非現実感を抱いたりしていた。1月には児童指導発達研究所の研究を受け、広範囲の治療的訓練を受けた。2ヶ月で7ヶ月分の読解力を身につけ、終了時には6歳10ヶ月レベル(暦年齢は8歳5ヶ月)になっていた。私は彼にナイアシンアミド1g 1日3回とピリドキシン250mg 1日2回を与え始めた。2ヶ月後には、はるかによく読めるようになり、もはや単語も動かなくなったが、数字はまだ裏返っていた。1972年8月21日までには、すべての知覚症状はなくなっていた。彼はよりリラックスし協調していた。1972年11月20日には、まだ読みはゆっくりで、数回モンスターも見ていた。1973年6月12日には、普通に読めでいたが、数学は遅れていて、まだBとDは反転させていた。1973年8月23日にジョン・ホーファーは彼を1, 0.5, 1 (3…点数が3項目しかなくて合計も合わないけど…)と大幅に改善したことを発見した。彼はまだ読書が難しく、他の子と関わることにいくらか問題を抱えていた。砂糖はいつも彼を悪化させた。彼は4年生に進級したが、1年遅れであった。彼の多動性スコアは1972年5月22日の45点→1972年11月20日の34点に減少し、1973年8月23日には49点に少し増加した。これらはすべて正常または正常に近いスコアである。1973年8月23日、彼の先生は母親への手紙に「A.U.は今年に入ってからずっと自信を持つようになりました。何かをしなければならないと言われると、彼はいつも『それをしなきゃいけないの?』と思っていたのが、今では何かに挑戦することに意欲的で、自分にうまくできることがいくつかあることに気付いています。活字体を書く(? printing)のと読解力が格段に向上して、本を読むのも好きになりました。知らない言葉に出合うと聞いてくるようになりました。以前は読み飛ばしていました。読解クリニックに半日通っていました。これは、彼に本当に有益な変化をもたらしました。何に対してもどんなちょっとの時間も集中するのが難しいのです。物語を声に出して読んでいると、一行ごとくらいに自分自身の話をしてくるのです。動物が大好きで、動物の話をするのが大好きです。彼はおとなしい生徒で、他のクラスの人たちととても仲良くしているようです」と書いた。そして1963年1月13日、3年生の先生は「彼は着実に進歩している」と書いた。唯一の問題は活字体を書くこと(?)で、彼はそれを難しく感じていた。


ひとりごと


(84)の「学校では非常に優秀だけど、夏の間ずっと盗みを続けていた」が個人的にはとても気になりましたが、盗癖も最終的にはおさまったのでしょうか。1111(4)だし、そうであったと思いたい…! ビタミンはアスコルビン酸抜きですが、ほぼいつもの量でしたね。

(85)に限らず、これまでページの上を単語が動くというLD的症状が何度も登場しています。ビタミンによる介入でこのケースみたいに自信を取り戻せて前向きになれたらいいですよね!

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例82・83)

今日もひとり読書会です。

しつこくてごめんなさい!


読んでいるのはこちらの本です。


確証のための情報(3)症例紹介(症例82・83)


・(82) K.S:1965年7月生まれ、1972年3月に初診。生後27ヶ月までお座りができなかった。話すようになったが、長い間その内容は理解できるものではなかった。小児科の検査では原因は見つからなかった。4歳の時、まだトイレトレーニングを受けていなかった。1971年の秋、遅れがあることが判明し、このことで母親が責められた。そのまま状態は悪化の一途をたどった。一度、大量の砂糖を食べた後、まとまって数度の痙攣を起こした。私が会った時、彼女は私に単語がページの上で移動し、行が一緒に走っていると教えてくれた。他の子たちに笑われているのではないかと妄想していた。何かうまくいかないことがあると誰かのせいにしていた。ナイアシンアミド1gを1日1回とピリドキシン250mg 1日2回を投与した。1ヶ月後、ずっと良くなり、4日のうち3日は夜尿なく眠れ、食欲もあり、イライラすることも少なくなった。担任は母に「学校ではこの3週間で前の年度よりも多くのことを学びました」と言った。1973年7月24日、0011、改善と評価された。高用量では吐き気が出るため1日2gのナイアシンアミドしか服用できなかったが、低用量にすると多動が強まった。まだ単語は横へ動いて見え、集中力と記憶力に問題があった。その後、ナイアシンアミドを補うためにイノシトールナイアシン酸1g 1日1回の投与を開始した。1974年1月12日、順調ではあったが、4日に1度は夜尿するようになった。イノシトールナイアシン酸塩は1日2gに増量された。彼女の多動性スコアは1972年3月2日の101→1972年4月10日の39に変化し、1973年7月24日には47であった。


・(83) D.T.:1960年生まれ、1970年4月に初診。彼は黄疸を伴う5週間の未熟児として生まれた。8ヶ月で歩き始め、2歳半で話すようになった。彼は一連の感染症疝痛に苦しみ、多動になった。リタリンを処方され、これが奇跡のように効いた。彼は正常になって1年生を修了しましたが、2年生には困難があった。リタリン40mgを毎日服用している間に他の問題が発生し、あるクリニックへ紹介された。リタリンは中止され、夜にメレリル10mgを投与された。しかしさらに悪化した。食欲については甘いものが大好きになり、食生活が非常に悪くなった。診察の2週間前にナイアシンアミド1g 1日2回とアスコルビン酸1g 1日2回が投与された。その間に少しずつ良くなり、イライラもしなくなりました。5時間の耐糖能検査では、彼は非常に重度の相対的低血糖を示した。0、0.5、1、2、3、4、5時間後の血糖値はそれぞれ104、239、282、198、68、82、90mg / 100mlであった。ナイアシンアミドを1g 1日3回、アスコルビン酸を1g 1日2回に増量し、リタリン45mg 1日1回を投与した。4ヶ月後には改善はみられたが、反社会的行動が悪化した。嘘をつき、警察に虚偽の報告をし、盗みを始めた。リタリンを20mgまで漸減した。ナイアシンアミドを2gまで増量した。1970年9月4日、彼はずっとよくなった。私はビタミンB3をナイアシン1g 1日3回に変更した。1970年10月5日、彼は正常であった。1971年9月、夏のキャンプから戻った後、彼は再び嘘をつき、盗みをするようになった。私はナイアシンを2g 1日3回に増やし、1971年12月3日に彼は再び元気になった。1972年12月3日、リタリンを15mgに減らした。彼は7年生になり、平均Cの成績で合格した。1973年6月12日、彼は学校で2回盗みをして捕まった。両親は離婚しており、彼はプログラムに従っていなかった。1973年7月27日に彼は0000 (0) - 改善なしと評価された。彼は幻視があることや学校や家庭での悪い行動があることを報告してきた。1973年12月27日までに、彼は偽造チェックを通過し、逮捕され、裁判所に現れた。しかし、両親は彼の進歩に満足していた。年末まで、彼はほとんど正常だった。症状も反社会的行動もなかった。多動性スコアは、リタリンを服用していなかった1970年4月14日の91から、40mgのリタリンを服用していた時の78まで低下し、ビタミン剤を追加した時には59まで低下した。1973年7月27日には67であった。


ひとりごと


(82)は0011「いちおう改善」という評価でであまり捗々しくないようにも見えますが、「この3週間で前の年度よりも多くのことを学びました」という担任のことばにすごく重みを感じます。

(83)は改善なしのケース。反社会行動あり、機能性低血糖を思わせる5hrsOGTTの結果もあり、とても興味深かったです。

以前セルフ人体実験でブドウ糖負荷試験にチャレンジした過去記事があるので、興味のある方はご覧ください♪

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例80・81)

今日もひとり読書会。

うーん、今日はちょっと読んでいてもやっとするケース。特に(80)が…。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例80・81)


・(8o) K.S.:1955年10月生まれ、K.S.の初診は1969年4月。

私が初めて彼女の兄を診たのは1968年の後半で、不眠や家庭・学校での困難を訴えていた時だった。彼は幻覚を見たことがあり、二度も幽体離脱(?)があり、声や音楽が聞こえ、神経質で不機嫌だった。非常に宗教的になって聖書を読む時間が長く、内向的になっていた。ナイアシンアミド1gを1日1回投与し、7月にはピリドキシン250mgを1日2回投与開始した。その時までには、若干の苛立ちと抑うつ感だけが残っていた。1972年9月11日、かなり改善していた。1973年5月に彼は結婚し、良好なままであった。

K.S.は、私の診察に連れて来られたことを恨んでおり、すべてを否定した。母によると、彼女は5歳半から問題を抱えていたが、それは特に私が彼女に会う1年前までの学校での問題であって、私が会ったときには彼女の学業成績は改善していた。しかし、その代わり不機嫌な気分変動に苦しむようになった。私との面談の間、彼女は未熟で敵意に満ちていた。私は彼女が病気だとは確信していなかったが、ビタミンB3依存性であるかどうかを確認するため、治療的なお試しとしてナイアシンアミド1g 1日3回 を摂るよう説得した。2ヶ月後には変化がなく、彼女はビタミンを摂るのを止めた。1973年8月10日にジョン・ホッファーが彼女に会ったとき、変わりない状態だった。マリファナを数回服用しており、それによって彼女は落ち込み、記憶力も低下していたので、それ以上使わないことにした。ほとんどの時間機嫌が良かったが、両親にイライラさせられ、母親が嫌いで家を出ようとしていた。学校での態度は悪く、成績は平凡であった。彼女の評価は1,1,0.5,0.5(3)、かなり改善と評価された。父親は、1974年1月13日に彼女を正常だと考えていた。


・(81) L.S.:1966年4月生まれのL.S.が初診したのは1972年8月。

彼女の母親は、統合失調症に12年間苦しんだ後、1972年の早い時期に私に会いに来た。彼女の精神科主治医は1969年に「この患者は現実とは多少ずれているが、彼女の精神性は完全に無傷である。彼女はよく知られる慢性統合失調症だ。彼女は非常に危なっかしくて予測不能に思える」と書いている。私と会うまでに6度も入院していた。 1972年に統合失調症のミーティングに参加し始めた。私が彼女に会ったとき、声の幻聴、非現実感、身体外の体験、被害妄想、途絶、そして重度の抑うつに伴う記憶困難と集中力低下に苦しんでいた。1973年2月に彼女はECTを9回受け、その後回復した。彼女はナイアシン1g 1日2回 、ナイアシンアミド1g 1日2回、ピリドキシン250 mg 1日3回、およびアスコルビン酸1 G 1日3回を飲んだ。

彼女の娘L.S.は、私と会う2年前に重度の癇癪と多動を呈した。単語がページの上を移動し、互いに衝突するのが見えた。声や足音が聞こえ、大人くらいの大きさの青い幽霊が見えたり、女性の姿が見えたりしていた。クモの化け物の顔も見えた。こうした幻覚は時々彼女に話しかけてもきた。ナイアシンアミド1g 1日3回、ピリドキシン250mg 1日2回、アスコルビン酸1g 1日1回を投与した。1ヶ月後には幻覚は見えなくなったが、嘔気のためナイアシンアミドの投与量を1g 1日1回に減らさなければならなかった。ナイアシン1g 1日2回を投与し始めた。3ヵ月後、彼女は前よりリラックスしていた。1973年2月19日、彼女は順調だった。ジョン・ホッファーは1973年7月25日に彼女を1,1,1,1(4)、正常と評価した。2日間ビタミンを中断すれば、彼女のうつ病が再発するだろう。多動性スコアは1972年8月の91→1973年7月25日に47に減少した。

ひとりごと


(80)も(81)も、家族の治療が先行したケース。家族の経過も少し詳しく記載されています。それにしても(80)でみられた改善はさすがにビタミンによる作用とは考えにくいような…ご家族との関係も難しそうですが、いちばん有効だったのはマリファナをやめたことだったのかもしれません。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例78・79)

今日もひとり読書会。

本日はとてもとても興味深い、食物アレルギー絡みの2ケースです。

もちろん、読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例78・79)


・(78)M.A.S.:1965年3月生まれのM.A.S.の初診は1972年6月。乳児として養子に出された時から乳製品アレルギーがあった。養子に出された時から、彼女は乳製品アレルギーを持っていました。1年生まで順調に育ったが、そこから多動で学習できなかった。牛乳によって悪化し、夜尿もみられた。単語が二重に見えたり、夕暮れ時に動物が見えたり、モンスターの悪夢を見たりした。被害妄想的で、周囲の人が自分をからかっていると思っていた。記憶力と集中力が低下し、途絶があった。ナイアシンアミド1gを1日1回とピリドキシン250mg 1日2回投与した。一ヶ月後、彼女は正常になった。ビタミンを止めると、すぐに再発した。1973年7月19日、ジョン・ホッファーは彼女を0111(3)、かなり改善と評価した。時折、「寝なさいメアリー・アン」という声が聞こえ、まだわずかにイライラしていた。彼女の行動スコアは1972年6月22日の84→1973年7月119日の39に減少した。


・(79)R.S.:1966年12月生まれのR.S.の初診は1971年6月。歩き始めて間もなく、彼は激しいかんしゃくやイライラを伴う多動性を呈し、理不尽な行動をとった。両親は、メンタルヘルスクリニックから「彼にもっと愛情と注意を与えるように」と助言された。家族全員の協力を得てそう試みたが、悪化を止めることはできなかった。その後、両親は行動変容のコースヘ導入された。刺激剤で彼の状態は悪化し、メレリルは役に立たなかった。非常に多動でそわそわしたままで、多動性スペクトルを全面的に示し、多動性スケールでは109であった。ナイアシンアミド1g 1日3回、アスコルビン酸1g 1日3回、ピリドキシン250mg 1日2回の投与を開始した。数日でおねしょは止まり、両親にとっては奇跡のような回復を見せた。数日で靴を結べるようになった。これまで両親は彼がこれほどよい調子なのを見たことがなかった。7月8日、私はナイアシンアミドナイアシン1g 1日3回に変えた。1971年10月19日、ほぼよい調子だったが、執念深くて意地悪になる日が数日あった。私はナイアシンを2倍にした。彼は変わらず順調だったが、両親が望むよりもまだ過活動気味であった。1972年2月29日まで、ナイアシン4g 1日3回を服用していた。1972年3月8日に、私は炭酸リチウム300mg 1日3回とイミプラミン125mgを就寝時に追加した。抗うつ薬は効かなかった。両親は彼のピリドキシンを1.5g 1日1回に増やし、これによってさらに改善されたと感じていた。しかし、1973年7月9日にジョン・ホファーが診察したところ、改善されていなかった。いつも鼻詰まりがあった。気分の変動はまだみられたが、リチウムを服用する前ほどではなかった。母親は、彼が機会あるごとにお菓子を食べるのが気分変動を促進していると考えていた。学校では相変わらず多動だったが、学業面ではよくやっていた。その後、1973年に彼はいくつかの食品にアレルギーがあることが判明し、それらを除去した。また、すべての薬をやめた。それからの数ヶ月間、彼には大きな改善が見られました。1974年2月、彼の両親は、彼が2年生でクラスのトップになったと私に言いました。彼は再び過活動になり始めていたので、ナイアシン1g 1日3回、アスコルビン酸1g 1日3回、ピリドキシン250mg 1日1回を再開した。彼の多動性スコアは、1971年6月3日に109→1971年7月8日に31→1973年7月9日に80であった。


ひとりごと


(78)は牛乳が悪影響を及ぼしていたケース。牛乳除去とビタミン内服の併用が有効だったようです。

(79)はあるき始めてすぐから多動が見られたケース。ここまで80ケース近く読んできて、ナイアシン1日12gもピリドキシン1日1.5gも過去最多だと思います。「機会あるごとにお菓子を食べるのが気分変動を促進しているのでは」という母親の読みも鋭いし、食物アレルギーの除去食がビタミン超大量療法よりも結局有効だったというのも考えさせられます。それでもナイアシン3g、アスコルビン酸3g、ピリドキシン250mgという定番量の服用はやはり有効なのですね。