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こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:新たな症例の経過(1) 症例3・4

週末はいろいろあって休んでしまいましたが、今日からひとり読書会再開です。

今日も興味深い症例がふたつ。


読んでいるのはこちらの本。


新たな症例の経過(1) 症例3・4


(3) R.G.:1992年12月22日生まれのR.G.の初診は1995年1月25日。両親は、彼女の発達の全般的な遅れを心配していた。彼女は4ヶ月間だけ母乳で育てられ、8ヶ月までに完全に離乳した。動作が緩慢で、寝返りを打つのも遅かったが、1994年9月に風邪が1ヶ月間長引いたあと発達が止まってしまってから両親は本気で心配するようになった。また、過呼吸になって地元の病院の救急外来へ一度連れて行かれた。その後、バンクーバーの小児病院で検査を受け、特に原因はないとされた。私が彼女に会ったとき、ちょうど椅子から椅子へと歩き始めた時期だったが、非常にぎこちなかった。動きに制限のある中で、多動のようにも見えた。自分で食事をすることはできるが、食べ散らかしていた。注目されることと喜んだが、抱っこされると非常に落ち着かず、引っ掻いたりを引っ張ったりする傾向があった。彼女は「ママ」と言うことができ、遊びに反応し、父親がある行動をすると笑っていた。慢性的な鼻水があり、これは乳製品を減らすと改善した。牛乳をたくさん飲んでいたのだ。りんごジュースを飲むと腹痛がした。皮膚に触れると赤くなった。爪に白斑があり、ピリドキシン亜鉛が欠乏のしている証拠であった。乳製品を使わない食事を与え、アスコルビン酸1g 1日1回、キレート亜鉛15mg 1日1回、子ども用処方のビタミン・ミネラル製剤を与えた。5月15日、彼女は一人で立ち、自分で歩けるようになったが、まだ不安定な状態が続いていた。発声も増え、成長も早くなった。両親は彼女の状態をまるで目を覚ましたかのようだと表現し、彼女の成長をとても喜んだ。1995年7月17日、鼻水はもう出なくなった。バナナとオーツ麦にアレルギーがあることが判明した。理解力は向上し、両親への反応も正常であった。彼女は20分間父親の腕の中で静かに横たわっていたが、こういうことは以前はできなかった。

5月15日にナイアシンアミド100mgを開始し、ジメチルグリシンDMG)50 mgを1日1回投与した。7月にはナイアシンアミドを500mg 1日3回に、DMGを50mg 1日3回に増やした。診察に来る数日前に、彼女はレット症候群の専門家である小児遺伝学者に診てもらった。彼は彼女のことをレット症候群の予後良好例に分類した。彼女がどんな疾患を持っているにせよ、栄養学的アプローチで大きな改善を示したことは間違いなく、おそらく今後も何年にもわたって大幅に改善していくだろう。


(4) J.D.:1980年9月生まれのJ.D.は1987年9月15日に初診した。彼はパークスセンターで乳児自閉症と診断されていた。難産で、5日間保育器を使用した。15ヶ月まで母乳で育てられていたが、それより前はミルクを与えられていた。生後13ヶ月で「ママ」という言葉を話すようになったが、3ヶ月後には言葉が出なくなった。生後18ヶ月の時点で、両親発達の遅れを心配していた。彼には周囲への反応がなかった。2歳の時、非常に高い熱を出した。2歳半の時、主治医と小児科医が診察し、正常であると判断された。プレスクール(幼稚園?)では、教諭は彼が変わり者だと気づき、7歳の時に自閉症と診断され、その後治療が行われた。私が彼に会ったとき、彼は話すことはできたが、容易に混乱するので非常にゆっくりと明確に話す必要があった。彼は一度にひとつの概念しか把握できなかった。メレリル25 mg を眠前に処方され、落ち着くことができた。よい精神状態を得ることはできなかった。夜中に鼻歌のような物音が聞こえると言った。私は彼の両親に、シュガーフリーで牛乳抜きの食事プログラムを行うよう助言し、ナイアシンアミド500 mg 1日3回、アスコルビン酸500 mg 1日3回、ピリドキシン250 mg 1日1回に亜鉛15 mgとカルシウム、マグネシウムを追加してB6による副作用を防ぐよう伝えた。 1988年2月9日には彼は落ち着いていて、指示によく従えるようになり、発話も改善した。一晩中眠れるようになった。1988年5月9日には、彼ははるかに改善し、感情的な反応もより適切になり、コミュニケーションを取るのも容易になった。1988年8月1日には、彼は1年生を修了し、算数は2年生のレベルになっていた。その1ヶ月後、学校でこれまでより落ち着きがなくなっていた。寝る前にイミプラミン25mgを追加した。1989年3月21日、母親は彼の進歩を喜んでいた。母親は2ヵ月前に彼をプログラムをやめてしまった。1989年4月6日、彼は脱落してしまったため、再びプログラムへ戻す必要があった。1年後、彼は通常の学校の3年生になった。1995年1月3日、8年生になり、成績はAとBであった。学校が好きで、友達とも仲良くしていましたが、孤独を感じていた。家では、より多くの友達を作っていた。彼はまだビタミンプログラムを続けており、両親は彼の進歩に満足していた。

ひとりごと

症例(3)はレット症候群のケース。「レット症候群があったとしても、栄養学的アプローチが有効だったし、おそらく今後も何年にもわたって大幅に改善していくだろう」という締めにはゾクゾクします。

症例(4)もコミュニケーションや精神症状がぐっと改善したケース。B6に加えて亜鉛とカルシウム、マグネシウムをしっかり摂るようにと明示してあったケースはこれまで少なかった気がしますが、忘れずにおきたいですね。

子どもの注意や行動の障害を治す:新たな症例の経過(1) 症例2

今日もひとり読書会、ここまで来たら最後まで到達したいです!

今日は長ーい経過のヘビーなケースですが、読む甲斐あり!でした♪


読んでいるのはこちらの本。


新たな症例の経過(1) 症例2


(2) C.M.:1994年5月17日、C.M.は母親と一緒にオフィスに来た。母親はC.M.について破壊的で口汚く、順応性がなく、激しい短気に悩まされていると表現した。この行動はとてもひどく、母親は彼女を手放すことを考えていた。彼女は3歳まで元気だった。それはその後、彼女が他の子どもたちとうまくつきあうことができないことと指摘された。その後、彼女は悪化した。2年にわたって児童精神科医によりテグレトールなど児童精神科医が使用する通常の治療を受けていたが、改善はみられなかった。1994年3月24日、精神科医は彼女のかかりつけ医に、初期にみられた改善は持続しておらず、ネガティブで反抗的な状態が続いていると報告した。彼はC.W.のケアに関わっている専門家のグループと会い続けた。学校は彼女に薬を飲ませることを望んでいた。しかし、彼女は薬物療法に反応しなかった。まだ行動障害を呈していると彼は書いていたが、明らかなADHDではなかった。私のオフィスでの彼女はひどかった。彼女は粗野で気難しく、暴力が出る寸前で、今にも私の家具を投げようとしていた。どんな会話も嫌い、私のことを嫌いだと言い続け、どんな治療にも協力しないと言った。私を凝視する彼女の目は怒りで血走っていた。もしも彼女の小さな手に銃を持っていたら、それを使ったことだろう。彼女は私を知る前から受診したがらず、私を恨んでいた。母親は いつもこのように振る舞っているのだと言った。テグレトール視覚障害を起こしたので 投与量を減らさなければならなかった。悪態のせいで2回停学になったことがあり、しばらくの間は多動だった。甘いものが大好きで、甘いものを手に入れると彼女の行動はすぐにずっと悪くなる。彼女の指の爪は白い部分があり、ピリドキシン亜鉛の欠乏を示していた。しばらくして彼女は悪夢を見ることを打ち明けた。常夜灯なしでは眠れなかった。部屋で何かが見えると母親に話していた。読みの障害があり、家庭教師についていた。非常にイライラしていて敵意があった。多動性スコアは99点だったので、私は乳製品を使用しない、砂糖を使用しないプログラムを開始し、ナイアシンアミド500mg 1日3回、アスコルビン酸500mg 1日3回、ピリドキシン100mg 1日1回、硫酸亜鉛の点滴を投与した。

6月21日には改善が見られなかった。彼女は5日間停学になっていた。まだ非常に敵対的で、私のオフィスで椅子を2つ投げつけた。就寝時にイミプラミン25mgを追加した。1994年9月20日、少し落ち着いていたが、まだ非常に怒っており、オフィスでの彼女の行動は非常にひどく、彼女にそこにいてもらうことに耐えられなかった。私はチオリダジン25mgを就寝前に追加した。10月26日に母親が一人で来た。娘はまた停学になったが、泣かずには登校できないとのことだった。12月にイミプラミンを2倍に増やした。かなりの改善がみられた。1995年3月9日、推論力が向上し、学校での成績もよくなり、些細なできごとが何度かあったが、まだ簡単に動揺してしまっていた。彼女から親しみを示し、私にポグ(?)を見せてくれた。6月23日、彼女の母親から電話があった。口角炎が痛むとのことだった。リボフラビンを追加し、ピリドキシンを500mg 1日1回に増やした。1995年7月13日、彼女は正常だった。彼女は5年生で、よい成績を取っていた。彼女は学校を楽しんでいた。その日、学校では西部劇のパーティーがあった。彼女はカウガールの衣装を着て、私と秘書のフランに喜んで見せてくれた。母親は娘は元気だと言い、彼女も調子がよいと言ったが、私もそのとおりだと感じた。多動性スコアは43と正常だった。砂糖と乳製品を排除し、正しいビタミンを加え、少量の精神安定剤と低用量の抗うつ剤を使用することで、この少女は子どもモンスターからフレンドリーで好感が持てる、学校を楽しんで友達も多く、成績も良好な魅力的な女の子に変身した。それによって彼女の家族全員の生活は一変した。

彼女は大量のケアにうまく反応せず、これまでそのケアによって彼女の行動は誘発されていた。彼女が3歳のときにビタミン治療プログラムを開始されていたとしたら、すべてのトラブルが発生していなかっただろうし、この州の医療費の請求書もはるかに低額になっていただろう。彼女はハイド氏からジキル博士に変換されました。1-2年のうちには、2種類の薬をやめて、ビタミン剤とよい栄養のみの治療となるだろうと考えている。

ひとりごと

今日の症例は長かったので1例だけ。ホッファーが自分のオフィスにいてほしくないと感じるほどのモンスターが魅力的な女性に激変する過程、本当に凄いと思います。向精神薬もいろいろ併用していますが「1-2年のうちにビタミンのみの治療に持っていけるだろう」という見通しも心強いですね!

子どもの注意や行動の障害を治す:新たな症例の経過(1) 序文・症例1

今日はひとり読書会、ちょっと久しぶりの再開。

いよいよ今日から結語の章に入ります。

より最近のケース紹介が10例ほど続きますよ!


読んでいるのはこちらの本。


新たな症例の経過(1) 序文・症例1


・新たな症例の経過

20年前に効果があった治療プログラムは今日でも効果がある。食物アレルギーが果たす役割についての認識が高まっているため、おそらくはなおさらであろう。しかし、1970年に得られた結果が当時にだけみられた奇妙で再現性のない一連のできごとに起因するものではなかったという事実を立証するため、私の最近のケースのごく一部について書いておく。

私がブリティッシュコロンビア州のビクトリアで診療を始めた1976年以来、私は500人以上の子どもたちを診てきた。これらの子どもたちは、これまでの治療結果を目の当たりにした家庭医たちから私に紹介されてきた。彼らは当初は非常に懐疑的で、家族からの圧力に屈して紹介してきているだけだった。しばらくすると、彼らは自ら紹介してくるようになった。

ここでは、オーソドックスな治療に失敗した子どもたちだけを紹介する。彼らは治療のうまくいかなかった特殊な集団である。過去の治療歴のない子どもたちの方がはるかに早く治療に反応する。私は、これらの子どもたちを助けることに失敗した精神科医の専門能力を批判しているのではない。もし彼らがオーソモレキュラープログラムを使えば、彼らも同じように成功するだろうし、患者の子どもたちと一緒に過ごす時間も短縮できるので、より多くの患者を治療することができるだろう。


(1) W.E.:1967年生まれのW.E.の初診は1982年6月。W.E.は何も問題を感じていなかった。両親は、彼の行動が悪化していることと、幼少期からのお菓子への欲求が強すぎることを非常に心配していた。彼は家出をするようになった。9回目の家出で警察が呼ばれた。また、知能が高いにもかかわらず、学校での成績が悪化していた。彼は勉強したくなかった。多動性スコアは75点だった。私はシュガーフリーで土曜日のみジャンクフードOKのプログラムを開始した。彼は好きなものを好きなだけ食べられる土曜日まで、砂糖を一切食べないようにした。ナイアシンアミド 500mg 1日3回、アスコルビン酸 500g 1日2回、ピリドキシン 250mg 1日1回、硫酸亜鉛 220mg 1日1回を投与した。一ヶ月後、彼は少し改善し、よりリラックスしていた。彼はもう土曜日のジャンクフードも食べないと決めた。1995年6月27日、母親が彼女自身の問題について私に相談に来た。彼女は息子は順調だと言った。看護師になろうとしている女性と交際中で、彼はよく働き、フルタイムで雇用されていた。彼の現在のスコアは1111 (4)、正常である。

ひとりごと

1970年代のケースばかりだった110症例を終え、より新しいケースを読み始めました。ホッファーが行っている治療は同じですね。

「もし他の精神科医たちがオーソモレキュラープログラムを使えば同じように成功するだろうし、患者の子どもたちと一緒に過ごす時間も短縮できるので、より多くの患者を治療することができるだろう。」という言葉は重いなぁと感じます。

【教えてください!】思春期のPMSと産婦人科受診

110ケース読みが終わり、小休止


強迫的なまでにコンプリート目指して読み続けていたひとり読書会の110ケース。

読み終えてちょっと気が抜けて、小休止を取ってしまいました。


またぼちぼちとブログ&残りわずかなひとり読書会を再開していきたいと思います。


最近の関心事は、思春期女子たちのPMSへの対処法


ここ数日で診察室でPMSや月経困難に関する相談を立て続けに受けたことで、以前から自分の中のテーマにしたいと思っていた月経関連の過ごしづらさへの対処への熱がまた高まってきました。


ずっとさぼりがちだったはてブロ移転前のブログでも、ブログ再開時にこんな宣言もしていましたっけ。



思春期の女の子の産婦人科受診、どうしていらっしゃいますか?


ときどき記事を書かせていただいている「高校生.com」にも投稿したのですが、重い月経やPMSに悩んでいる女の子を産婦人科に積極的に紹介することにちょっとためらいを感じてしまっています。

「気分や身体は楽になったらいいなと思うけど、産婦人科はちょっと…」というお声を聞くことも多くて、それもそうだよなぁ…と。



産婦人科を受診された方、迷ったけど行かない決断をされた方などなど、産婦人科受診に対する思いを教えていただきたくて、Twitterでもアンケートを実施中です。



ぜひぜひご意見お聞かせください!

コロナの逆境に負けていない大学生さんたち。

大学生さんたちの苦悩

今の職場に移ってから受診してくださるお子さんの平均年齢はぐっと下がりましたが、それでも大学生さんの受診もぽつぽつあります。

そこでよく話題になるのが、オンライン講義のこと。
ほとんど大学へは行くことがなく、スマホやPCからリアルタイムのオンライン講義や先生が録画された動画での講義を受けたり、課題提出もオンラインだったり。

友達には会えないし、講義内容や課題にわからないことがあっても先生にも同級生にも気軽に聞きづらいし、ネット経由で送った前期テストの感触すらわからないし、卒論の相談もままならないし、などの声をたくさん聞いています。

特にかわいそうなのが、1年生。
そもそも入学式すらなかったとか、まだ同級生と喋ったこともないとか。
「本当に入学したのか不安になりますよ」と教えてくれた子もいました。

ううむ、コロナの影響はなかなか消えてくれませんね。

逆に、オンライン万歳! なことも

それでも、ときどき「大学がオンラインになってすごく快適!」と話してくれる人もいるんです!

わざわざ登校しなくてもいいから講義時間ぎりぎりまで寝ていられるし、着替えも化粧もしなくていいから楽、とか。

動画講義は早送りで観られるし、聞き漏らしても何度でも巻き戻せるからむしろ理解しやすい、とか。。

レポート課題はテキスト入力して送信するから、友達と分担してLINEで交換し合えばひとりあたりの負担は軽くて済む、とか。

…おおお、なんてポジティブ!
この逆境をむしろ上手に活用するたくましさに惚れ惚れします。

不便な状況からの回復が待ち遠しい!

逆境を楽しんで乗り切る彼らの姿勢は私自身もしっかり真似したいところですが、校外実習が先送りになっている学生さんやゼミで相談して論文を仕上げないといけない学生さんのことを思うと、やっぱりずっと今の状況が続くのが好ましいとは思えなくて。

早くこの自粛モードが収束するといいなぁ…と願っています。

後期から多少状況が変わりそうな大学もあるみたい。
みなさんにとって過ごしやすい大学生活が早く始まりますように…!!

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例109・110)

今日もひとり読書会、なんと110ケースの最終回です!

今日の二人は双子のケース。そしてその母も姉もビタミン治療経験者なのですが…。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例109・110)


・(109)R.W.:1962年6月生まれのR.W.の初診は1968年1月。母親は1954年から慢性統合失調症だった。病気の間、彼女は結婚し、後に離婚し、ひとりきりで4人の子どもの世話をしていた。1968年、彼女はオーソモレキュラー治療を開始し、忠実にプログラムを実行した。かなり改善した。

母親はR.W.のことを心配していた。R.W.はとても静かで人見知りで、行動に問題があり、双子の妹とよく喧嘩をしていた。KP陽性だった。ナイアシンアミド 500 mg 1日3回とアスコルビン酸 500 mg 1日3回を服用した。一ヶ月後、吃音が止まり、人形遊びもやめ、はっきりと話すようになり、ぐるぐる走り回らなくなり、より活動的になった。1968年10月10日、春に彼がプログラムに従わなかったために再び吃音を起こし始めたと母親から報告があった。秋には夜尿もみられた。ナイアシンアミドを1g 1日3回に増量した。1969年3月、夜尿することなく眠るようになり、徐々に改善がみられたが、まだ妹の後ろに隠れていた。ナイアシンアミドを4g 1日1回に増やした。3月31日、さらにはっきりと話すようになった。デキセドリン(中枢神経刺激剤)5mgとピリドキシン100mg 1日1回を追加しました。1971年3月2日、 母親は彼を正常だと思っていた。私にも以前よりずっと自由に話しかけ、学校での成績もよくなっていたが、まだ人見知りだった。1973年7月30日、彼は好調だった。ジョン・ホッファーは 彼を0111と評価した。まだいくつかの幻覚があった。目を閉じていると、通りすがりの(?)墓地に穴が開いているのが見えた。彼の多動性スコアは37だった。


・(110) C.W.:1962年6月生まれのC.W.の初診は1968年1月。彼女はR.W.の双子であり、正常だった。母親は彼女も病気になるのではないかと心配していた。彼女は尿中にKPを排泄していた。私はナイアシンアミド1g 1日1回とアスコルビン酸1g 1日1回を投与した。1969年7月22日、彼女は行動に問題を呈し始め、赤ちゃん言葉で話すようになっていた。7日間ビタミン剤を飲んでいなかった。ナイアシンアミドを1g 1日4回に増やし、メレリル50mg 1日1回を加えた。1970年3月31日、かなり改善した。ナイアシンアミドを1g 1日2回に減らし、メレリルを止め、デキセドリン5mgを加えた。1970年7月27日、小学2年生に進級したが、よく泣き、人に触られるのを嫌がった。ナイアシン12g 1日1回を追加した。1970年12月30日、調子はよくなったが、今度はビタミン剤の服用を一切拒否した。1971年3月2日、眼鏡が必要なのに掛けるのを拒否した。学校でうまくいっていた。1973年7月30日には何の変化もなかった。薬を拒否し、学校で進級したが、明らかに弟に遅れを取っていた。ジョン・ホッファーは彼女を1000、改善なしと評価した。緩慢で、偏執的で、イライラしていて、落ち込んでいた。ビタミン剤を飲むように説得されたら、彼女は元気になるだろう。彼女の多動性スコアは75だった。彼女の姉は6歳でビタミン剤の服用を開始し、1970年10月には正常になっていた。それ以上の治療は拒否した。1973年11月、彼女は自殺未遂の後に入院した。彼女は父親と一緒に暮らしていたが、行動は徐々に酷くなってきた。

ひとりごと

ワンオペで4人の子育てをするお母さんが心配した双子のケース。(109)はビタミン治療をがんばれた男児。中断すると症状が出ていましたが、最終的にはずいぶんよい状態になりました。その双子である(110)はビタミンや眼鏡など自分の助けになるものを拒否した女児。学校や家庭でうまく過ごせてはいたようですが、症状は残ってしまっています。ケース番号はありませんが2人の姉もまたビタミン治療を試し、一旦よくなったものの継続拒否して自殺未遂から入院に至るという大変な経過を辿っています。

110ケースを通じて、ビタミンで症状が改善することは実感できましたが、やはりお子さん本人のモチベーションをどう保つかというところがいちばんの難関なのではないかと思えてきました。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例107・108)

今日もひとり読書会です。

いよいよ終了目前、残すところあと1日です!!


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例107・108)


・(107)R.Y. 1960年5月生まれのR.Y.の初診は1968年3月。4人の息子のうち最初に診た子である。1967年の夏に行動上の問題を呈し、家では従順で、弟たちに嫉妬していた。学習ができず、電気をつけずに寝るのを恐れていた。恐ろしい怪物の悪夢を見た。神経質で、頻繁に短気を起こした。ナイアシンアミドアスコルビン酸を各1g 1日1回投与した。4ヶ月後には改善した。彼の行動は正常化し始め、学業成績は上がり、2つAを取って3年生に進級した。しかしさらに落ち着きがなくなった。就寝時にクロルプロマジン75mgを追加し、ナイアシンアミドを1.5g 1日1回に増やした。3ヶ月後、彼の両親と先生によれば彼は正常だった。1969年3月26日、学校の平均評定は改善し続けたが、従順ではなくなっていった。ナイアシンアミドを1g 1日3回に増量し、クロルプロマジンを中止し、就寝時にイミプラミン20mgを投与した。1969年10月17日、知覚症状はなくなったが、他の子どもたちとの間に問題を抱えていた。生来の便秘は完全に解消された。1970年3月24日、抗うつ薬が中止となった。1970年10月27日、イライラしていた。1973年8月17日、ジョン・ホッファーは彼を1111(4)正常と評価した。彼は8年生に合格し、家庭でも学校でもうまくいっていた。多動性スコアは1973年8月14日に43点、12月14日には55点だった。


・(108)S.V.:1965年10月生まれのS.V.の初診は1970年12月。1歳まで座ることができず、1歳半で歩き始め、3歳までには話せるようになった。精神科を受診したところ、多動で恐怖心が強いことがわかった。精神安定剤を処方された。1969年12月に大発作を起こし、さらにその後痙攣を3回起こし、1970年7月に抗痙攣薬を投与された。発作は消失したが、病状は悪かった。疲れやすく、汗をたくさんかき、身体的に不器用で、まともに走れなかった。母親の話では、彼は幼い女の子に噛まれたと言っていたが、物音にとても敏感で、電車を診たり電車の音を聞いたりすると悲鳴をあげて泣き、逃げていた。とても内気で、話をさせるのが大変だった。私のオフィスへ来ても多動だった。まだトイレのしつけができていなかった。ナイアシンアミド1g 1日3回、アスコルビン酸1g 1日2回、そしてマイソリン(プリミドン:抗てんかん薬)250mg 1日1回を継続して投与した。2ヵ月後、彼の協調性は改善され、発話も明瞭になった。ナイアシンアミドを2g 1日3回に増やし、リタリン10mg 1日1回を追加した。膀胱と腸のコントロールを訓練するため特別なハウスへ入所した。高用量のビタミンを摂取することができず、嘔吐した。1971年5月21日、母親は彼のアミゾリンを中断した。5月25日に痙攣を起こして入院し、マイソリンが再開された。彼は特別なハウスでのトイレトレーニングをやめ、ナイアシンアミド1g 1日3回によってより活発になり、身体的にもよくなった。小児科の教授が母親に、金輪際 "くだらない "ビタミンを息子に与えないように、私(A. ホッファー博士)のところへも決して連れて行かないようにと助言した。このことは、常にマイソリンはくだらない、ビタミンは重要だと考えていた彼の小爆発を引き起こした。1971年7月22日、私はピリドキシン100mg 1日3回とDMG 300mg 1日1回を追加した。1971年8月19日、彼は改善した。特別ホームの意見に反して、トイレトレーニングをしていなかったにもかかわらず彼はずっとよい状態になったと母親は気づいた。顔色は普通で、発音も良くなり、数の数え方も覚えた。癇癪を起こすことは増えていた。1972年1月13日、トイレトレーニングを受けた。10月28日までに市内に移り、特別教室へ出席できるようになった。寮母はビタミン剤を信じておらず、母親に相談なく彼のビタミン治療を中止した。小児科医はマイソリンを止めた。1972年6月7日、私はピリドキシンを250mg 1日2回に増やした。彼は改善を続けていたが6月7日に一度痙攣を起こした。 7月に1回、9月にも5回発作があった。それ以上の改善を示さず、トランス状態にあるように見えた。ディランチン(フェニトイン:抗てんかん薬)150mgとフェノバルビタール(抗てんかん薬)20mg 各1日1回を投与された。彼の発話は再び改善し始めたが、まだ多動だったし、まだ平均月2回の発作を起こしていた。以前よりはっきり話すようになった。1973年5月24日、痙攣以外の点では改善が続いた。1973年7月26日、私はナイアシンアミドイノシトールナイアシン酸1g 1日3回に置換した。1974年1月18日、母親は、彼がピリドキシンを取らなかったときには痙攣が起こっていなかったことに気づいた。彼はより自立し、自分のことは自分でやるようになり、言葉もはっきりしてきた。多動性スコアは1970年12月17日の73→1971年5月21日には49に変化した。改善と評価された。


ひとりごと

なんと、(104)~(107)はY家の4兄弟だったようです。多少のイライラは残っても、評価は1111(4)、全方面での改善がみられています。

(108)は「小児科教授」にあからさまにビタミン治療を反対されたケース。ピリドキシンが痙攣発作を誘発している面はあったようですが、B3はある程度有効だったと思われます。

さて、明日が110ケースの最終回です。はりきって読みたいと思います♪