ここのすラボ2.1

こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例109・110)

今日もひとり読書会、なんと110ケースの最終回です!

今日の二人は双子のケース。そしてその母も姉もビタミン治療経験者なのですが…。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例109・110)


・(109)R.W.:1962年6月生まれのR.W.の初診は1968年1月。母親は1954年から慢性統合失調症だった。病気の間、彼女は結婚し、後に離婚し、ひとりきりで4人の子どもの世話をしていた。1968年、彼女はオーソモレキュラー治療を開始し、忠実にプログラムを実行した。かなり改善した。

母親はR.W.のことを心配していた。R.W.はとても静かで人見知りで、行動に問題があり、双子の妹とよく喧嘩をしていた。KP陽性だった。ナイアシンアミド 500 mg 1日3回とアスコルビン酸 500 mg 1日3回を服用した。一ヶ月後、吃音が止まり、人形遊びもやめ、はっきりと話すようになり、ぐるぐる走り回らなくなり、より活動的になった。1968年10月10日、春に彼がプログラムに従わなかったために再び吃音を起こし始めたと母親から報告があった。秋には夜尿もみられた。ナイアシンアミドを1g 1日3回に増量した。1969年3月、夜尿することなく眠るようになり、徐々に改善がみられたが、まだ妹の後ろに隠れていた。ナイアシンアミドを4g 1日1回に増やした。3月31日、さらにはっきりと話すようになった。デキセドリン(中枢神経刺激剤)5mgとピリドキシン100mg 1日1回を追加しました。1971年3月2日、 母親は彼を正常だと思っていた。私にも以前よりずっと自由に話しかけ、学校での成績もよくなっていたが、まだ人見知りだった。1973年7月30日、彼は好調だった。ジョン・ホッファーは 彼を0111と評価した。まだいくつかの幻覚があった。目を閉じていると、通りすがりの(?)墓地に穴が開いているのが見えた。彼の多動性スコアは37だった。


・(110) C.W.:1962年6月生まれのC.W.の初診は1968年1月。彼女はR.W.の双子であり、正常だった。母親は彼女も病気になるのではないかと心配していた。彼女は尿中にKPを排泄していた。私はナイアシンアミド1g 1日1回とアスコルビン酸1g 1日1回を投与した。1969年7月22日、彼女は行動に問題を呈し始め、赤ちゃん言葉で話すようになっていた。7日間ビタミン剤を飲んでいなかった。ナイアシンアミドを1g 1日4回に増やし、メレリル50mg 1日1回を加えた。1970年3月31日、かなり改善した。ナイアシンアミドを1g 1日2回に減らし、メレリルを止め、デキセドリン5mgを加えた。1970年7月27日、小学2年生に進級したが、よく泣き、人に触られるのを嫌がった。ナイアシン12g 1日1回を追加した。1970年12月30日、調子はよくなったが、今度はビタミン剤の服用を一切拒否した。1971年3月2日、眼鏡が必要なのに掛けるのを拒否した。学校でうまくいっていた。1973年7月30日には何の変化もなかった。薬を拒否し、学校で進級したが、明らかに弟に遅れを取っていた。ジョン・ホッファーは彼女を1000、改善なしと評価した。緩慢で、偏執的で、イライラしていて、落ち込んでいた。ビタミン剤を飲むように説得されたら、彼女は元気になるだろう。彼女の多動性スコアは75だった。彼女の姉は6歳でビタミン剤の服用を開始し、1970年10月には正常になっていた。それ以上の治療は拒否した。1973年11月、彼女は自殺未遂の後に入院した。彼女は父親と一緒に暮らしていたが、行動は徐々に酷くなってきた。

ひとりごと

ワンオペで4人の子育てをするお母さんが心配した双子のケース。(109)はビタミン治療をがんばれた男児。中断すると症状が出ていましたが、最終的にはずいぶんよい状態になりました。その双子である(110)はビタミンや眼鏡など自分の助けになるものを拒否した女児。学校や家庭でうまく過ごせてはいたようですが、症状は残ってしまっています。ケース番号はありませんが2人の姉もまたビタミン治療を試し、一旦よくなったものの継続拒否して自殺未遂から入院に至るという大変な経過を辿っています。

110ケースを通じて、ビタミンで症状が改善することは実感できましたが、やはりお子さん本人のモチベーションをどう保つかというところがいちばんの難関なのではないかと思えてきました。