ここのすラボ2.1

こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例22-25)

ひとり読書会、症例紹介が続きます。

4ケースずつ読んできて、ようやく25ケースまで終了。

バラエティに富んだ症例、ひとつひとつ勉強になります!


読んでいるのは、相変わらずこちらの本です。


確証のための情報(3)症例紹介(症例18-21)


・(22) M.F.:1959年5月生まれ、M.F.が初めて診察を受けたのは1973年4月のことだった。母親は慢性の統合失調症で、メガビタミン療法と電気痙攣療法1クール、赤身の肉を使わない食事療法で回復していた。私に会う3ヶ月前からM.F.は学校等のことで非常に神経質になっていた。緊張は過度の発汗を伴い行きつ戻りつしていた。生理前はもっとひどくなっていた。社交的でなくなり、いつも落ち込んでいた。主訴は非現実感だった。私はナイアシンアミド1gを1日3回、ピリドキシン250 mg 1日2回、そして食事療法で治療開始した。1973年6月4日までにかなり良くなったが、非現実感は消えていなかった。1973年8月16日、ジョン・ホッファーは彼女を良好と判断した(1111)。まだわずかに非現実感はみられたが、他の問題はなかった。学校では優秀だった。彼女の両親は、プログラムを開始した後に大きな変化が現れたと言った。9月に彼女は2週間具合が悪くなった。赤身の肉を食べるのを止めると、数日で回復した。11月に私はアスコルビン酸1g 1日2回を追加した。良い状態が続いている。


・(23) D.F.:1961年5月生まれ。D.F.の唯一の不満は、しばらく本を読んでいると目が痛くなることだった。文字がページの上で上下に飛び跳ねて、頭痛がするのだ。母親は、彼がイライラしやすくて扱いが難しく、学校でも遅いと思っていた。乳幼児期には言語障害があった。彼は「顔がぼやけて見える、ピンクの机が青く見える、床がキラキラしている」と言っていた。私はナイアシンアミド1gを1日1回投与し始めた。1971年1月14日までには、彼はずっとよくなっていた。彼の症状のほとんどは消失した。1972年4月12日には良い状態になり,1973年7月10日のジョン・ホッファーの面接時には1111(4)であった。彼の元の多動性スコアは45であった。


・(24) B.F.:1959年7月生まれのB.F.の初診は1967年10月。2歳の頃から、B.F.はイライラして泣き虫だった。3歳の時にはベッドでおねしょをするようになった。6歳の時、両親が彼にナイアシンアミドを投与し始めたが、その後すぐにおねしょをしなくなった。その頃、彼は障害のために治療的な読み聞かせを受けていた。スピーチクリニックに数回通院した後、彼は退院した。私はナイアシンアミドを1g 1日2回に増やし、アスコルビン酸1g 1日2回も追加した。1967年11月、彼は膵炎と高熱を伴うおたふく風邪にかかった。この間状態は悪化し、学校での成績も下がり、彼の言葉は乱れ、パニック発作を発症した。1968年2月11日、不安感が強くてイライラしやすく、涙が止まらず、勉強もできず、綴りも書字も悪くなったため、ビタミン剤の投与を再開した。1968年5月29日、彼は綴りの評価で初めてAをもらった。1968年7月、彼は同級生に猜疑心を抱いていたが、学校ではうまくいっており学年4位の成績であった。治療前は学年の最下位だった。1969年2月、彼はまだイライラすることがあり、成績は下がっていたが、友達は増えていた。1969年5月15日、私は彼にリタリン1mg 1日1回を投与し始めましたが、改善は見られなかった。1970年3月2日にニューレプチル5mgを追加し、1970年12月23日には成績は6年生になり、成績の平均はBの上だった。ジョン・ホッファーは1973年7月11日に彼を良好と判断した。私は彼が牛乳アレルギーであることを発見し、乳製品を中止しました。彼のスコアは1111(4)、改善であった。


・(25) T.F.:1961年8月生まれのT.F.の初診は1967年10月でした。T.F.は兄のB.F.より2歳年下であった。 彼は小柄で活発すぎる少年で、定型だが活発すぎる少年だったが、6歳の時におねしょをするようになった。 両親は彼にナイアシンアミド1g 1日1回を投与し始め、彼の夜尿は止まった。1967年10月、彼は再びおねしょをするようになり、いつも疲れていた。1967年11月13日、私はナイアシンアミドアスコルビン酸を各1g 1日2回に倍増した。1968年1月11日に彼は正常になっていた。私はその後、ビタミンB3をプラセボに置換した。私がそうする直前に、彼が非常によくやっているので先生が彼を上の学年に進級させた。先生は彼がビタミンやプラセボによる治療試験にあったことを知らなかった。プラセボにして数週間後、先生は彼がまた後退していることを発見し、前の学年に戻した。彼は再び夜尿するようになった。ナイアシンアミドを再開したが、反応は緩徐で、3月と4月は非常に悪い状況だった。私はビタミンを1g 1日3回に増加させ、1968年4月29日までに彼は回復し、拗ねることも減り、食欲も回復していた。1968年7月5日には、彼の視力もぼやけなくなり、おねしょは稀になり、彼は最高の状態でその学年を過ごした。1970年6月1日、彼は正常になっていた。彼はナイアシンアミドを「幸福の薬」と呼んでいた。1970年12月23日、まだ調子が良かったので彼はビタミン剤をやめた。ジョン・ホッファーは1973年7月11日に彼を良好と判断した。彼の最終的な評価は1111(4)だった。


ひとりごと


今日も症例4つ読んでみました。

赤味の肉で具合が悪くなったり、牛乳アレルギーが発覚したり、食べ物との相性はやっぱりひとりひとりいろいろあるものなんですね…。でも使っているビタミンは一貫してナイアシンアミド、B6、C。これを基本に置くことは外せないですね♪