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こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例46・47)

ひとり読書会こまめに2ケースシリーズ、お盆も休まず続けます。


読んでいるのはこちらの本です。


確証のための情報(3)症例紹介(症例46・47)


・(46) D.K.:1958年11月生まれ、1968年4月に初診。彼女の母親は17年前から重度の気分変動を呈していたが、通常の治療には反応しなかったため私のところへ紹介された。しかし、彼女は躁鬱病ではなかった。彼女は統合失調症で、特に落ち込んでいる時には誰もが自分を見ているという幻視や偏執的な考えを持っていた。家から出ることも拒否した。近所の人や夫には心が読めると思っていた。また、彼女は混乱し、途絶があり、記憶力と集中力が非常に低下していた。KPを排泄していた。私は1968年8月に6回のECTを含む治療に彼女を開始し、彼女は回復し始めた。ピリドキシンを追加した後、1972年の末までによくなった。彼女は、学校でうまくいかず、非常にイライラして食べ物に口うるさく頭痛に苦しんでいる娘のD.K.のことを心配していた。私は娘にシュガーフリー食を始めたが、1970年2月までには改善はなかった。それからナイアシンアミド500mg 1日3回とアスコルビン酸500mg 1日3回を加えた。一ヶ月経っても何の変化もなかった。彼女は大量のジャンクフードを食べていた。ビタミン摂取量を2倍にし、ピリドキシン500mg 1日1回を加えた。1972年8月28日に、いくらか改善がみられた。1972年11月6日、母親は娘がいつもの花粉症に苦しんでいなかったこと、数学と科学の成績が良くなったことを報告した。1972年11月、彼女は伝染性単核球症になり、すべてのビタミンを中止していた。すぐに調子を崩し、教室でもうまくいかなくなった。私はナイアシン1g 1日3回を始めた。彼女は10年生であった。ビタミンプログラムを実行するるたびに、学校で うまくやれたが、数日間プログラムを中止するとすぐに彼女が不機嫌でイライラして癇癪を起こして冒涜的な言葉を使っていた頃の彼女に戻るのだった。1973年11月5日、はるかに改善がみられ、ほとんどの時間好調だった。ジョン・ホッファーは、彼女を1001、(4)改善だが経過は変動的である判断した。彼女の多動性スコアは、1972年6月21日の79→1973年6月19日の35→1973年8月3日の51へと変化した。彼女の行動は、ビタミンを摂取し、食事療法に従っているかどうかによって大きく影響された。


・(47) B.K.:1962年10月生まれ、B.K.の初診は1971年2月。1970年の初め、担任は彼の進歩に非常に不満を抱いていた。彼は仕事に集中して取り組むことも、仕事を完成させることもできず、それを続けるために絶えずプレッシャーをかけ続けなければならなかった。ナイアシンアミド1gを1年間投与されていたが、何の改善もなかった。私に会うと、彼は自分も後ろに動物や男性がいる恐ろしい夢を毎日見ると言い、他の子たちが自分のことを話していて誰も彼を好きじゃなく、彼を傷つけるためにトラブルに巻き込んでいると確信していてしばしば悲しくなると話した。私はビタミンを1g 1日3回に増やし、リタリン10mg 1日1回を追加しました。1971年4月15日までに夢を見ずに眠れるようになり、学校のレポート評価はよく、まだ被害妄想的ではあったがより明るくなった。1971年7月14日、順調だった。1973年8月13日、彼は6月中旬に肺炎になった後すべてのビタミンが中止されていた。視覚的な錯覚が再発し、集中力が低下し、再び悲しむようになった。6月の学業成績は過去最高だった。しかし、母親は彼が大してぶり返してはいないと考えていた。彼の評価は0.5,1,0.5,0 (2) - 改善であった。彼の多動性スコアは、1971年2月10日に57→1971年4月15日に38→1973年8月13日に51であった。


ひとりごと


今日の2ケースも、ビタミン中断によって症状が再発するケースでした。

ちょっと前にも、中止すると再発するんだなぁ…という振り返りをしたばかりですが。

今回のケース(47)は、母親が再発に気づいていないというのが興味深かったです…。完全に元に戻ってしまったわけではなかったのかもしれません。