ここのすラボ2.1

こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

子どもの注意や行動の障害を治す:確証のための情報確証のための情報(3)症例紹介(症例103・104)

今日もひとり読書会です。

ゴールが見えると心が軽くなりますねー(笑)。あと少しです。


読んでいるのはこちらの本。


確証のための情報(3)症例紹介(症例103・104)


・(103)S.W.:1955年12月生まれ、S.W.の初診は1969年10月。私が彼女に会う1ヶ月前、退学になるぞと学校から言われた。家に帰るのが怖くて、2日間街を彷徨った。結局、女友達が自宅に電話をかけ、両親が彼女を迎えに来た。彼女は、両親があまりにも自分につらくあたると確信していて敵意を持っていた。彼女が遅く帰ってきた場合、両親は彼女に外出禁止を科すだろう。9年生では平均評定Cだったが、学校をとても退屈だと感じていて、たくさん欠席していた。人々が自分を見ていると感じ、夜に男性の声が自分を呼ぶのが聞こえ、自分の考えが声となって聞こえ、非現実感があった。単語がページ上を動くので、読むことが困難だった。被害妄想的で、人々が自分について話していて、見知らぬ人が自分を笑っていると思い、一度は母親が自分の部屋に盗聴器を仕掛けたと確信したこともあった。グループでの会話は彼女を混乱させた。殺人を考えたこともあり、2年前には妹の首を絞めようとしたこともあった。彼女は落ち込み、自殺願望を抱いていた。母親は、彼女が日記に書いたことや男の子に興味がないことから、娘は同性愛者になるのだと思っていた。私はナイアシンアミド1g 1日3回を開始し、いくらかビタミンCも投与した。一ヶ月後には知覚症状はなくなり、以前より学校は楽しくなり、落ち込むことも少なくなった。1969年12月15日には正常であった。1970年3月19日には好調だった。学校を楽しみ、集中して記憶することができた。彼女は1.2cmほど背が伸び、髪の成長が早くなり、爪の状態もよくなり、爪の白い部分がなくなり、荒れた乾燥肌もよくなった。1973年8月15日、ジョン・ホッファーは彼女を1111(4)-正常と評価した。彼女は1971年半ばまでビタミン剤を服用したままで、その後は、自分の潜在能力を十分に発揮できていないと感じたときにのみビタミン剤を服用していた。彼女は12年生を修了した。スポーツに積極的で、野球をしたり、冬にはバスケットボールのコーチをしたりしていた。1974年2月2日、彼女が母と2人の姉妹と2週間の休暇を楽しんだ後に帰宅途中のパームスプリングスの空港で彼女に遭遇した。彼女は好調で、人生を楽しんでいた。


・(104) K.Y. 1964年10月生まれのK.Y.の初診は1970年11月。頭は良かったが、学校では遅れていて、家庭での対応は大変だった。母親が彼を受診させた3週間前、古い家を見て、そこには蛇がいると聞かされた。彼は蛇の夢を見るようになり、ベッドに入るのを拒否しました。自分のテディベアが幽霊のように見えた。彼はしばしばベッドから逃げ出し、両親の寝室へ移って一晩過ごした。本を読むと、単語がページ上を横に動き、線は曲がり、人の顔は脈打っていた。それを見て笑ってしまうのだった。私はナイアシンアミド1g 1日2回を投与した。2ヶ月後、彼はずっと良くなった。ビタミン剤を飲まなくなるといつも再発した。ピリドキシン250mg 1日2回を追加した。1972年10月6日、彼は順調だった。1973年8月24日、彼はまだ錯視と他の子たちへの敏感さがあった。ビタミンを摂るのが好きではなかったので、彼と対決するよりはマシと考えビタミンを不規則に摂ることを許していた。学校では良い子だった。ジョン・ホッファーは彼を0111(3)、はるかに改善と評価した。多動性スコアは1970年11月2日に59→1971年2月12日に49→1973年8月24日に43であった。母親は慢性の統合失調症で、1970年11月からビタミン剤による治療を受けていた。母親は、まだ理由もなく夫に嫉妬することを除けば、かなり改善していた。


ひとりごと

(103)は無断外泊や自殺願望、妹を殺そうとしたこともあるなど手強いエピソードのあるケースでしたが、栄養が整って肌の調子もよくなり、勉強やスポーツ、家族とのバカンスなど人生を謳歌するようになったという激変ぶりに驚かされます。

(104)は母親も統合失調症で、本人には妄想や知覚変容がありました。ビタミンが嫌いで、服用量などはある程度本人任せな面もあったようですが、それでも大きく改善していますね。