ここのすラボ2.1

こどもの こころを のびのび すくすく 育てることをめざして試行錯誤中の児童精神科医なおちゅんのブログです。

PISA2018の結果を読んで、スルーできなかった違和感

PISAの話は終わろうと思っていたけれど…

昨日記事にした、学習到達度調査PISAでの日本人の読解力低下の話。

 もう昨日で終わりにしようと思っていたのですが(それほど興味ないという方も多いでしょうし…)、今朝のyahoo!ニュースの記事を見てやはりこのままにはしたくないと思うことがあって。


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昨日はあえてスルーしましたが…

昨日はサラッと流していましたが、萩生田文科大臣のコメント

PISAでは前回からコンピューター使用型調査が導入されているが、)日常の中で、パソコンを操作しながら学習する経験値の差は要因としてあり得る

にはとても強い違和感を覚えました。

そして、大臣のコメント(http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/02_oecd.pdf)にはないのですが、yahoo!ニュースに載っている文科省の見解

文科省は、重要箇所に線を引くことができる紙の問題文との違いを指摘。また、プログラム上、一つの大問を解答し終えて次に進むと前に戻れないが、「そのルールを忘れ、戻れずにパニックになる受験者も若干見られた」(同省)

も、どうしてもスルーできなくて。

 

なぜこんなに引っかかるのか?

萩生田大臣のコメントどおり、PCの操作に慣れ、PCを使った学習の経験値が上がれば読解力の問題は解決するのかと考えてみたら、そんなわけない!

だって、PCを操作するテスト形式に変わっても、数学的リテラシーOECD加盟国中1位、科学的リテラシーは2位。
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PC操作に苦しんで解答できなかったわけではないのは明らかです。

単に、これからICT教育を普及充実させるという既定路線があって、「学校における1人1台コンピュータの実現等のICT環境の整備と効果的な活用」をするんだからそれでノープロプレム!と済ませてしまおうと思ってるんじゃないの、と勘ぐりたくなってしまいます。

…ま、コメントも「要因としてあり得る」と結んでおられるので、私の勘ぐりは杞憂なのでしょうけど。


それから、文科省の見解のほう。
ふと、先日初めて受けてみたTOEICテストのことを思い出しました。
TOEICはマーク式のペーパーテストなのですが、実は「問題用紙には何も書き込んではならない」という注意書きがあるのです。
その指示にはカンニング防止などの意味もあるのでしょうが、「重要箇所に線なんか引かずとも、しっかり内容把握しなさい。読めるでしょ?」と檄を飛ばされている気分でした。
ディスプレイだから、鉛筆で線が引けないから読めない、というのはやっぱり読解力の弱さゆえだと思うのです。なんと言っても、各国の受験生にとってそれは平等な条件ですしね…。

さらに、大問を解答し終えて次に進むと前に戻れないというルールを忘れ、戻れずにパニックになる生徒さんも若干いたというのは、そのルール(口頭指示か書面指示かはわかりませんが)自体への理解の弱さが露呈したということなのかもしれません。

要するに何がこんなに引っかかったのかといえば、日本の子どもたちの読解力低下への危機感を抱かずにICTやらテスト方式やらのせいにして片付けようとしている(ふうに見える)ことが心配でならないのです。

もっと根本的な対策を考える姿勢を見せてもらえたら少しは安心できるのに…と残念な気持ちでいっぱい。

結局は、子どもたちの読解力を伸ばすための具体的な手立てを考えて、それを学習指導要領に落とし込むしかないのではないかと思います。
国策として子どもたちにどのような教育を受けさせたいのかをきちんと示してほしいな、と願わずにいられません。

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PISA2018、子どもの読解力落ちてるってよ…

PISA2018の結果が公表されました

文部科学省のウェブサイトにPISA(Programme for International Student Assessment:国際的な生徒の学習到達度調査)の結果が公開されました。

3年に一度、OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development:経済協力開発機構)加盟国を中心に15歳の子どもたちを対象に行われる世界規模の調査です。

学習に関する時事ネタ、気にせずにはいられません!
さて、調査の結果はいかに…?

読解力が低下している…

萩生田文部科学大臣のコメントによれば、

今回の調査結果によると、数学的リテラシー及び科学的リテラシーは、引き続き世界トップレベルですが、読解力については、OECD平均より高いグループに位置しているものの、前回2015年調査よりも平均得点及び順位が低下しています。

との総括。
http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/02_oecd.pdf

日本の子どもたちの読解力については、新井紀子先生のこちらの本でも心配されていましたが、まさにそれを裏付けるようなPISAの結果になったといえそうです。

国立教育政策研究所ウェブサイト」には「OECD 生徒の学習到達度調査2018年調査(PISA2018)のポイント」というPDFがアップされています。

http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/01_point.pdf

このサイトによれば、PISAで読解力として測定される能力は、

① 情報を探し出す
② 理解する
③ 評価し、熟考する

の3つのようです。

そして読解力を測定する3つの能力について、読解力が中心分野の過去回の調査結果を踏まえると、

  • 「②理解する」能力については、その平均得点が安定的に高い。
  • 「①情報を探し出す」能力については、2009年と比較して平均得点が低下。特に、習熟度レベル5以上の高得点層の割合がOECD平均と同程度まで少なくなっている。
  • 「③評価し、熟考する」能力については、2009年と比較して平均得点が低下。特に新規追加された「質と信ぴょう性を評価する」「矛盾を見つけて対処する」能力を問う問題の正答率が低かった。

つまり「ななめ読みのざっくりした理解はできているけれど、根拠となる文章や単語をピンポイントで探し出したり、読んだ内容に対する考えを自分の言葉で表現したりするのは苦手」ということなのかな、と理解しました。

たしかに、PISAで出題された問題は決して易しくはありませんでした。
こちらで「ラパヌイ島」という問題に挑戦できますので、ぜひ挑戦してみてください⤵︎ ︎

http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/04_example.pdf

この結果に対して何ができる?

国レベルでどのような対策を講じていくのかという大きな話は萩生田大臣のコメントに書かれていますが、自分が身のまわりの子どもたちに対して何ができるのかちょっと考えてみました。

みんなが読むことを「楽しい」と感じられるように

文章を読むこと自体が苦痛だと本を読まなくなるだろうし、そうすると新しい知識や語彙に触れる機会が失われてしまう。
耳からの入力が可能な部分はあっても、音声情報は流れて消えてしまうし、どうしても伝わりやすさ優先で平易な表現や口語調が使われがち。
読むために必要な眼球の動きや読んだことを蓄えて次の文章との繋がりが考えながら読めるだけのワーキングメモリや集中力の確保といった「学びの構え」を子どもたちが整えられるような支援は必要だろうと思いますし、求めている子どもたちにしっかり、支援を提供したいと思いました。

自分の考えを言葉にする機会を増やす

もはや読解力の範疇は超えていますが、子どもの考えを言葉で表現する機会を増やして習慣にしていくことは大切。家庭でもできなくはありませんが、これはどうしても学校教育に期待したくなる部分が大きいかもしれません。

萩生田大臣も今後取り組むべきこととして「主体的・対話的で深い学びの視点からの授業改善」を挙げていらっしゃいますが、一方的に先生から教わらないスタイルの授業だとしても、児童生徒同士の対話やディスカッションが深まらなければ子どもたちの表現の力は磨かれないわけで、子どもたちのアウトプットに対する指導者からの的確な助言・指導が重要になってくるはず。
それには、先生方の言語運用能力の高さや指導スキルも求められるわけですよね。

やっぱり学校教諭の先生方の給与を出し渋るのは先生方の質の担保という意味でも好ましくないのかもしれないなぁ…と数日前のTwitterを思い出しています。

それから、息子の学校生活を見ていて感じるのは、自分が小学生のときと比べて作文や文章を書く機会の極端な少なさ。
自分の小学校時代を思い返せば、高学年のときは全員が2冊の日記用ノートを用意して、毎日300字程度の日記を書いて提出すると翌日コメントつきで返却されるシステムだった(ので毎日2冊のノートを交互に提出する)し、小1から作文を綴じるフラットファイルは毎年4月に必ず用意されていてことあるごとに作文を書いていたし、日々「自分の考えを書く力」が鍛えられていたように思います。

まぁ、もし今これを実現するとしたら、やはり学校教諭の先生方のご負担は大きくなるし、先生方の力量はもちろん時間的余裕も必要になりますよね…。

学校で子どもたちの表現の機会が増えるのを待つ間にも、各家庭で親が子どもと身近なことでディスカッションし合うほうがもしかしたら手っ取り早いでしょうか。
子どもから何か欲しいものがあるとかやりたいことがあるとか親に声をかけてきたとき、どうしてそれがいいと思うのか、なぜそれが必要なのか、どんないいことがあるのか、親を説得するつもりで子どもが話せるよう、親の方も時間をかけて丁寧に子どもとやり取りができたら、それはもう自分の考えを言葉で表出する貴重な機会になるはず。

学校の先生方であれ、子育て中の親であれ、子どもと言葉をたくさん交わして関わる時間をたっぷり確保できるようになれば、子どもたちの言葉の力も向上しやすいということなのかもしれません。

3年に一度のPISAの結果を受けて、あれこれ考えてみました。
子どもの育ちに関わる大人のひとりひとりが、自分に何ができるか考えてできることを実行していくだけで、少しずつ世の中は変わるはず。
「どこかの15歳の話」で終わらせず、たくさんの方に自分事として考えていただけたら嬉しいなと思います。

子どもの注意や行動の障害を治す:治療(2) 栄養の処方

火曜日恒例、ひとり読書会。
今日は、ビタミンをどう処方するかの話です。

読んでいるのは、引き続きこちらの本。

栄養の処方

・患者の子ども本人や家族と食事について話し合ったあと、栄養サプリメントによる治療の原則を説明し、導入的ビタミン処方のリストを渡す。まじビタミンB3、ナイアシンナイアシンアミドを1日500ミリグラムから開始。次はビタミンC、つまりアスコルビン酸も1日500ミリグラム。ビタミンB6つまりピリドキシンを1日100g(小さい子)または250g処方する。治療が進めば各ビタミン量は調整することもあるし、他のビタミンやミネラル、必須脂肪酸アミノ酸を処方する場合もある。

・明らかな効果が現れるまで数週間または数か月おきに定期的に会う。回復傾向が見られたら、両親にどのぐらいの頻度で会うかお任せする。再発や不調が出るまで会う必要はない。私の介入なく、彼らがうまくやっていくまで会う回数は平均1人当たり3-4回だ。

・子どもが錠剤を飲み込むのは難しく、親子バトルのもとにもなるが、子ども自身がビタミンを摂ると調子がよくなることを理解すればこの問題は解決する。診断や今の状態、治療する理由などを説明され、理解できればたいてい大丈夫だ。行動上の問題の場合は説明が難しくなる。

・必要性を理解していても子どもが薬を飲みにくいことがある。ナイアシンアミドピリドキシンはとても苦いし、錠剤が大きくてザラザラしていると飲み込みにくく味を感じやすい。小さくつるっとした剤形のメーカーのものを選ぶといい。意外だが一度に複数の錠剤を飲み込むほうが嚥下反射が起こりにくいし、1錠ずつ飲み込むと水でおなか一杯になってしまう。食後に飲むのがベストだが、ビタミンをピーナッツバターとバナナのサンドウィッチのようなものにくっつけたり食事に混ぜて摂取することもできる(それでも苦みは感じられる)。液状のものはビタミンBが十分含まれていない。からかわれたりするのを防ぐため、学校にはもっていかないほうがいい。

・通常の治療―リタリンやある種の精神療法―が無効だったり使いたくなかったりする場合、親にはビタミン治療への動機づけがあるが、治療全体のプロセスを説明する必要がある。親たちは主治医から「ビタミンなんか子どもに飲ますな」と言われたり、別居している配偶者や善意の親族たちの意見による反対にあったりする。何かの理由で病院受診したことでビタミンプログラムを取りあげられてしまうこともある。数日で再発し、ゼロからやり直さないといけなくなるし、そのたびに治療反応性が悪くなる。

・ここから、分子整合治療で用いる重要な栄養素の説明に入る。

ひとりごと

やっとビタミンによる治療を行うときの具体的な方法論の話に入ってきて楽しい♪
子ども本人が必要性を理解していることや錠剤の飲み心地がビタミン服用のコンプライアンス(むしろアドヒアランス?)を左右するという記述には納得。
それにしてもひとり3-4回の診察で済んじゃうのは凄い!
次回からは、ビタミンB3、C、B6、B群全般、E、AとDの順にビタミンについて読み進めていきます。

文科省は変わった。学校はどうだ?

自宅学習の出席日数カウント問題

ちょっぴりターミネーター風のタイトルで始めてしまいましたが、ちょうど昨日のYahoo!ニュースにこんな記事が出ていました。


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(記事が削除されたときのために一部スクショしました。)

通常の公立学校でなくシュタイナー教育を実践している学校を選びたいと思うお子さんや親御さんがいらっしゃるのはとても理解できます。

シュタイナー教育は、低学年は授業数少なめで高学年になるとぐっと授業が多くなる設定だったり、芸術表現・想像力・手や身体を使った活動などが豊富でただ一方的に先生から教わるだけじゃない主体的な学びの時間も多かったり、学びのスタイルは公教育とはちょっと違うようです。
(と、こちらのマンガで知ったばかりのことの受け売りで書いてみました。)

マンガでやさしくわかるシュタイナー教育

マンガでやさしくわかるシュタイナー教育

でもそういう学び方のほうがわが子に合っていると感じる親御さんは絶対いらっしゃるだろうし、私だって正直興味津々で、もしも身近にそういう選択肢があったら息子を通わせることをきっと検討したと思うし。

ただ現実には、まだまだオルタナティブ教育選択へのハードルは高いのですね…。

文科省の姿勢は変わりつつあるのに


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冒頭のYahoo!ニュースの中にもあるように、2019年10月には「不登校の子が学校復帰を希望しなくても在籍校を出席扱いにできる」とする通知を出しています。そのことは以前記事にもしました。

私の知っているお子さんの中にシュタイナー教育で学んでいる人は残念ながらいないのですが、毎日学校に通う代わりに国内のいろいろな大会で賞を獲るレベルの高い技術を磨いている小学生のお子さんがいらっしゃいます。

お子さんも親御さんも信念を持ってその過ごし方を選択しておられ、「学校には行かない、その代わり自宅学習はきちんとする」というルールのもと、通信教育で学年相応の学力も身につけ学校からの課題プリントは必ず提出するという生活を続けています。

そのお母さんも文科省の新しい通知の存在をご存知で、担任に「わが子の頑張りを出席日数としてカウントしてもらえないだろうか」と交渉されたそうです。

すると後日、親子で校長室に呼ばれ「出席日数としてカウントするには、条件があります。あなたは学校に来るつもりがありますか? お父さん、お母さんは学校へお子さんを来させるつもりがありますか?」と聞かれたとのこと…。

学校側の意識改革が待たれます

だから、出席日数の換算に再登校の意思は関係ないのに!!…

先日お母さんからこの報告をお聞きして、一緒に残念な気持ちを分かち合いました。

せっかく文科省がこれまでの通知を全て無効にしてまで新たな文言で学校に呼びかけてくれているのに、学校の方がまだその新しい通知の内容にシフトチェンジできていないようです。

ご両親で新しい通知の内容を先生方と一緒に確認してこられたそうなので、これからお子さんにとってよい判断が出るといいなぁ…と思って見守らせていただいているところです。

公教育でも、そうでない教育方法でも、子どもたちが自立した大人になるために、自分に合ったスタイルの自分にとって必要な学びを自由に選べる時代に早くなればいいなぁ、と願っています。

やっとたどり着いた、大満足のチーズ入り自家製ブランパン!

粉チーズを練り込んでみよう!

ブランパン(ふすまパン)チャレンジ、おそらくチーズパンの最終回です。
粉チーズを後入れしてみたら、表面にはまぶされたけど生地には入っていかなかった…と言うのが前回の挑戦結果でした。

 

nao-chun.hatenablog.jp

 だったら、スパイスパンのとき生地に初めからスパイスを混ぜ込んだのと同じように、粉チーズだってゴロゴロしたチーズのキューブはブランパン生地の中に取り込まれていかないけど、粉チーズなら混ざってくれるのかな? というのが今回の挑戦です。

 

 

今回の材料は?

材料に関しては、もう迷いはありません♪
-ふすまパンミックス(富澤商店) 200g
-ドライイースト(赤サフ) 3g
-塩 4g
-卵 1個
-無塩バター 30g
-牛乳 200mL
-粗挽きブラックペッパー 0.5gくらい(もはや量らず適当にペッパーミルをゴリゴリ)
-粉チーズ 約26g(だんだん適当に(笑)…ふすま粉などと同時入れ)

後から気づきましたが、エリスリトールを入れ忘れていました…。
おっちょこちょいぶりをいかんなく発揮しております。

 

 

後入れブザーの鳴らない快適さ♪

この作り方だと後入れ作業がないので、セットしたら焼き上がるまでの1時間55分完全放置でいいのが助かります。

 

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パッと見、チーズの行方は分かりません。
前回のパンと焼き上がり表面を比べてみると、溶けて固まったチーズのテカリやカリカリ感がまったくないので、無事に生地の中に混ぜ込まれたのだと推測されます(左が前回のもの)。

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肝心のお味もバッチリ!
トースト+バターで十分楽しめる仕上がりでした。

ということで、長く続いたチーズパンへの道も今回で一旦終結としたいと思います。

この試行錯誤をしている途中で、砂糖や添加を含まないとても美味しそうなピーナツバターが買えそうなところを見つけてしまいました…。
チーズパンにピーナツバターは合わないしれないので、ときどきスパイスパンも交えつつ、飽きずにブランパン生活を楽しんでいきたいと思います。

ほかにも美味しいブランパンレシピをご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント等で教えていただけたら嬉しいです♪

難解すぎて挫折しかけたシュタイナー教育への扉を開いてくれたのは…?

出版されたてホヤホヤの新刊マンガ!

最近こちらのブログでもときどき紹介させていただいているシュタイナー教育
もっと知りたいと思いつつ、本が難解でなかなか学びが進まずにいたところ、長尾まさ子先生のTwitterから吉報が。

 

11月27日にシュタイナー教育のことをわかりやすく描いたマンガが出版されたとのこと!

ハードル高いなぁと思うものでも、マンガを導入に使うと意外とすんなり入っていけるということはつい最近漢方・中医学で経験済み。

 

nao-chun.hatenablog.jp

nao-chun.hatenablog.jp

 

なので,早速購入してきました♪

マンガでやさしくわかるシュタイナー教育

マンガでやさしくわかるシュタイナー教育

 

 

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後ろに並ぶのは、読めずに停滞していたシュタイナー本。

 

 

シュタイナー学校での学びの様子が垣間見える!

「エクストラ・レッスン」を知ったことでシュタイナー教育に興味は持ったものの、実際にシュタイナー学校でどんなふうに学ぶのかを見聞きしたことはなかった私。

でもこのマンガでは、普通の公立小学校教諭(主人公)がシュタイナー学校の活動を見に行き、勉強会に参加して学びを深め、我が子や自分が担任するクラスの子にそのエッセンスを還元する…というストーリーの中で紹介されるシュタイナー学校の様子を主人公と同じ目線で知ることができます。

教科を厳密に分けず、芸術と学習も混じり合って、教わる学びよりも自ら気づいていく学びを大切にする…といった印象を私は受けました。それが「自由への教育」につながるという理論に基づいているよう。

胆汁質などの4つの気質論、7年周期の発達…このあたりは何となく中医学とも相通じるものがあるように感じて興味深かったです。

 

 

冒頭の鋭い指摘にドキッ!!

読み始めた早々に、シュタイナーの書籍に関する注意書き(?)があって、それがまるで自分のことを見透かされているようで吹き出してしまったのですが。

関連図書も膨大で…ただ、そのコーナーは「神秘思想」など、ちょっと怪しげなジャンルの中に設置されていることがほとんどで、書棚の前で立ち止まるのに、少し勇気が必要になる方も…(P.27)

まさにそれ!! 最寄りの大型書店ではシュタイナーの書籍は「精神世界・オカルト」と書かれた棚に集められていましたから…。

 

じつは、シュタイナーの著作を読んで、内容がスラスラと理解できたという人に、私はいまだかつて出会ったことがありません。中には、即座に拒絶反応を示してしまう方もいらっしゃると思います。
それもある意味、無理のないことです。たとえば「人間は物質体・生命体(エーテル体)・感情体(アストラル体)・自我の4つの要素から成り立っている」などといった話を聞いて、すぐに理解できるほうが珍しいのです。(pp.27-28)

これもホントそう!!! どんどん読み進めたいのに、えっちょっと待ってそのワードは何? みたいなことが度々起こるのです。エーテル体とかオイリュトミーとかフォルメンとか、シュタイナー世界のターミノロジーにいちいち面食らってしまい、何も頭に入ってこなくて。

さて、そんな私のような人へのアドバイスとして、閉鎖型(人智学の世界に閉じた、専門家向けの本)ではなく開放型(初心者も広く受け入れてくれる本)の本から入りましょう、と書かれていました。
なるほど…いきなりシュタイナー本人著の書籍から読み始めないほうがいいのね…。
たくさん開放型の書籍タイトルも紹介されていたので、まずはそこから取り組みたいと思います。

私が本当に知りたいのは、「エクストラ・レッスン」のような学びの構えができるところまで脳と身体をどう整えるかという部分なのですが、シュタイナー教育そのもののイメージをしっかり持っていないとエクストラな部分の目的が見えにくいですもんね。

シュタイナー教育って何? と気になった方はまずこのマンガから読んでみることをおすすめします♪

マンガでやさしくわかるシュタイナー教育

マンガでやさしくわかるシュタイナー教育

 

 

 

「我が子を治したくない親」ってどういうこと?

治したい親と治したくない親

治そう発達障害ドットコムの記事「治したい親と治したくない親の違い」を読んでちょっと考えたことがありました。

子どもの障害や苦手を治したい・改善したいと思う親がいるのはとてもよくわかりますし、実際何人もお会いしたことがあります。

でも、「治したくない親」にはまだ私自身は出会ったことがないような…もしかしたら、それはとてもラッキーなことなのかもしれませんが。

もちろん親御さんの「何とかしたい」という思いが空回りして、結果的にお子さんの状態が改善するのを遅らせてしまっているように見えるケースにはちょくちょくお目にかかります。先日の円環的因果律の記事とも繋がる、親子間・家族内の悪循環ですね。

でもそれは「治したくない親」とはまた違う気がするんですよね。

私の親は治したくない親だったのか?

なぜ「治したい親・治したくない親」のことが気になっているのかというと、この2日にわたって自分の過去を振り返ふことが、「果たして私の親は治したくない親だったのか?」と考える機会でもあったからです。

生まれつき人から障害と呼ばれる状態があって、物心もつかないうちから定期的に病院通いをして、なんとなく「自分の手は生まれつきみんなのようには動かない」ことは理解していて。
当時未就学児の私が、担当医に対して「もっとよくなる方法ってないんですか?」なんて疑問をぶつけるわけないのは当然と思うのですが、私の両親はどう考えていたのだろう…と。

大学病院の薄暗い廊下、濃いグレーのリノリウムの床、廊下の両側に平行に並んだベンチにズラリと並ぶ患者さん。そんな光景を今もはっきり覚えています。
予約を取って午前中に受付しても「診察は午後になるのでお昼を食べてきてください」と毎回言われる外来受診。
私自身も待たされすぎてうんざりした気分で受診待ちをしていたのを覚えていますが、親だって相当面倒で大変だっただろうな、と今になって思います。
それでも定期的に予約を取って毎回きちんと連れて行ってくれていました。
入院中だって何ヶ月ものあいだ、日中の付き添いはもちろん、折り畳みの簡易ベッド(なぜだか「ボンボンベッド」と呼ばれていた…一般的名称なのかな)でずっと寝泊まりしてくれていたし。

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でもそれって、私のことを治してやりたいと思ってくれていたからこそだと思うのです。
医療を信じて、先生の言うとおりにきちんと治療を受けさせようと思ってくれていたからこそだと。

そしていつだったか、「役場から障害者手帳取りませんかと何度も勧められたけど、断ったのよ。あの頃は手帳を取る人も少なかっただろうし、何人に取得してもらったって実績が欲しかったのかしら」と母に聞かされたことがありました。
これも母が「治したい親」だったことの表れかもしれません。

治したい親でも治せなかったのはなぜ?

私の親はたぶん「治したい親」だったと思います。
でも、私は手放しで治ったと喜べるほどよい状態にはなっていない…それはなぜか? と考えてみて、ふたつの理由に思い当たりました。

ひとつは、医科学の発展自体がまだ進んでいなかったから。中枢神経系が再生することも分かっていませんでしたし。

もうひとつは、今のように誰もが書籍やインターネットから治療に関する情報にアクセスできる時代じゃなかったから。
当時は今以上に、その時点で医師が持っている知識が最高かつ唯一の情報で、それを信じて忠実に従うことが患者や家族にできる最大の努力だったのだと思います。
医師が「これ以上治せない」と思ったらそこが全員の目標の上限になる…今もそういう傾向はありそうです。

そう考えると、「治そうとする・しない」は親よりもむしろ医師側の要因と言えるのかもしれません。
医師から「一生治りません」「これ以上の改善は見込めません」と宣言されると、それが最終宣告になってそれ以降の思考がストップしてしまいかねないということ。

だからこそ、「治りません」宣言をすることにはとても慎重でいたいのです。
少なくともそこに「薬物療法など、今の標準の医療では」という断り書きをつけたい。
そして、「でも、日常の中で改善していけることもあるかも…という知見が集まってきていて、興味がおありなら情報提供できますよ」とお伝えすることができれば、治したい親のニーズに応えることもできる。

今は親御さんの方が先に新しい知見を見つけていることも多いのですが、勇気を出して親御さんからそれを話題にしてくださったときには「それはインチキ! 反医療!」と斬り捨てたりせず、自分の持っている知識に照らして助言ができたらいいなと思っています。


…うーん、結局「治したくない親」とは「治る・改善する未来をイメージするチャンスや情報に恵まれてない親」なのかなぁ。今後実際に「治したくない親」と対面することがあったらまた考察してみたいです。